伝承之蔵

勾当台の由来
仙台市/青葉区/本町

   慶長八年、伊達政宗は、新しく完成した仙台城に入城した。ある日、政宗が領地を視察していると、ある盲目の者が道端で土下座をしていたので、 政宗は、その者に名前を聞いた。すると、意外にも、その者は、 「 名に一字 違いありとて ことごとし 君は政宗 我は政一  ( あなたは“政宗”という名前で、私は“政一”という名前。名前に一文字だけ違いがあるだけで、なんとも、はなはだしい立場の違いであることよ ) 」と、 見事な狂歌で答えた。政宗は、その狂歌を賞賛し、数日後、その 花村政一 という者を仙台城に呼んで頭巾を与え、 「 赤裏も 伊達な人丸 頭巾かな ( この頭巾は、人目につかない裏面が、派手な赤い色になっているが、 粋なことをする柿本人麻呂が身につけそうな、立派な頭巾であることよ ) 」という狂歌を詠んで、 「政一、この狂歌はどうじゃな?」と聞いた。すると、すぐに、政一が、 「 破れ紙子も 柿渋のもと ( たとえ、破れた衣服であっても、そこには、防腐・防水剤として大切な柿渋が染み込んでいるということを、忘れてはいけません ) 」と答えたので、 政宗は、ますます感心し、その後、政一に勾当の位を与えた。 その盲目の狂歌師である花村勾当が住んでいた屋敷は、ある丘の上にあったので、いつしか、里人たちは、この屋敷のことを、“勾当台”と呼ぶようになったという。

参考 『 仙台市史 6 』
現地で採集した情報


現地レポート

仙台市史6には、「勾當の屋敷は後に泉田出雲という侍の屋敷となり、さらに藩の學校養賢堂となつたが、今もここを勾當臺というのはそのためである。 戰災前までは養賢堂の玄關の南向い、池の土手に檜の大木があつて、その下に勾當夫妻の墓というのが立つていて、ひどく疵だらけになつていたのは、 墓石をかいて粉にして煎じて呑むとオコリを落すといい、又子供の百日咳に効くという呪いにされたからである」とある。


これが、養賢堂跡。現在は、宮城県の県庁になっている。



これが、養賢堂跡の碑。



これが、仙台藩の藩校であった養賢堂の全体図。赤丸が、正門。



これが、養賢堂の正門。明治維新の後、養賢堂が県庁舎になったとき、正門は洋風に改められた。そのため、この正門は泰心院に移され、現在は、泰心院の山門になっている。


因みに、「 破れ紙子も柿渋のもと 」に関して、原文では、「破れ紙衣(かみこ)も澁柿のもと」となっている。“柿渋”と“渋柿”とでは意味が違うのであるが、 赤褐色の柿渋と赤い頭巾をかけていると判断して意図的に改めた。また、原文には、本来なら、 “ちがひ(違ひ)”と記述するべきところを、“ちがい(違い)”と記述している部分もあった。校正の仕方に問題があったとすると、柿渋と渋柿を誤写した可能性も出てくる。


平成 21 年 11 月 6 日 ( 金 ) 掲載
令和 4 年 1 月 14 日 ( 金 ) 改訂


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