現在、この伝承の財産を探す手がかりは、二つだけ残されている。一つ目は、「 朝日さす、夕日さす。三つ葉、空木のその下に。漆万杯、黄金ざくざく 」という言葉。二つ目は、「財産を埋めた場所は、“ お控え場 ”という場所にある石碑に刻んである」という言葉である。「 朝日さす… 」の伝承は、全国的にあるので、決して珍しいものではない。ただ、「 お控え場の石碑に刻んである 」というのは、かなり具体的である。そこで、黄金の輝きに欲望をかきたてられ、探してみることにした。
まずは、針生山の朝日、銅谷山の夕日を探してみた。しかし、残念なことに、銅谷山の一部と夕日という地名は現存していなかった。赤い矢印が、現在の銅谷山。
以前は、赤い枠内が銅谷山であり、黄色い枠内が夕日という地名だったのだが、三菱地所住宅販売(株)が、宅地造成工事をしてしまったため、夕日という地名は消滅してしまった。
針生山という山と朝日という地名は現存していた。これで、朝日長者が所有していた土地の範囲が把握できた。
次に、お控え場を探してみた。昔、銅谷に住んでいたという古老Aさんに聞いたところ、お控え場は通称で、正式な地名ではない。昔、鷹狩りの時に、放した鷹がもどってくるまで、人が控えていた場所だから、お控え場と呼んだとのこと。お控え場は、銅谷から根白石中学校へ抜ける山道の途中にあったという。上の写真の赤丸のあたりが、お控え場。しかし、残念なことに、前述の宅地造成工事で土が足りなくなったので、造成用の土を、お控え場があった山を切り崩して持っていってしまった。この工事により、お控え場は消滅し、財産を見つける手がかりとなる石碑も行方不明になってしまった。
これまでの話を整理すると、上の写真のようになる。現在、お控え場があった銅谷から根白石中学校へ抜ける山道は現存していない。
しかし、何となく、「 道だったのかなぁ〜 」という線は残っている。因みに、赤い★は、
鷹繋山
。古老Aさんによると、昔、鷹狩りの時に、鷹をつないでおいたので、そのように呼ばれるようになったという。
赤い矢印が、鷹繋山。
古老Aさんによると、お控え場の石碑は、全部で五〜六個あったという。その中の一つに、ある名前が刻んであったのだが、その名前の方の孫が、古老Bさんである。古老Aさんが、「 ん〜、古老Bさんが、どこかに石碑を運んだという話を聞いたことがあったなぁ… 」と教えてくれたので、古老Bさんの家を訪ねてみると、自宅の庭に、その石碑を保存していた。なんでも、自分の先祖が建てた石碑なので、なんとか保存したいと三菱地所住宅販売(株)に申し出たところ、三菱地所住宅販売(株)が、この申し出を快諾し、石碑を古老Bさんの自宅の庭まで運んでくれたという。下の写真が、お控え場にあった石碑である。
これが、お控え場にあった石碑。この石碑に刻まれている文字を読んだが、特に、変わったことは刻まれていなかった。
明治十【 丑 】年十月八日
湯殿山
三十三度参
※左下に、二人の名前が刻んであった( その一人が、古老Bさんの祖父 )。【 】内は、小さく刻まれている文字。
弘化三【 丙午 】年
氏神
五月朔日立
※下に、十二人の名前が刻んであった。【 】内は、小さく刻まれている文字。
山神
四兵衛
古老Aさんによると、石碑は五〜六個あったということであったが、現存を確認したものは、この三個である。もう三十五年も前の話なので、かなり曖昧な点も多く、最初から三個だったのかもしれない。確かに石碑が、五〜六個あったというのであれば、残りの二〜三個は廃棄された可能性が高い。いずれにしても、今回、黄金を発見することはできなかった。
平成 17 年 9 月 9 日 ( 金 ) 掲載
令和 5 年 7 月 14 日 ( 金 ) 改訂
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