伝承之蔵

首塚地蔵尊
気仙沼市/本吉町中川内

   昔、この里に、 東禅寺 という寺があったのだが、夜な夜な、東禅寺に妖怪がでるという噂があったので、夜はもちろんのこと、昼に参詣する里人もいなくなってしまった。その後、東禅寺は荒れ果て、とうとう、無住の寺となってしまったため、困った里人たちは、 冷松寺日山和尚 に東禅寺の再興を頼んだ。

   ある日、日山和尚は、一晩中、東禅寺の本堂で座禅をした翌朝、里人たちに、「 一晩中、本堂で座禅をしたが、妖怪らしいものは現われなかった。しかし、少し気になることがあるので、鋤鍬を持って私についてきてくれ 」と言い、近くにある川沿いの道を上流に向かって歩きはじめたところ、しばらくして、日山和尚が、ある柳の前で立ちどまり、その柳の根のあたりをさして、「 ここを掘ってみてくれ 」と言ったので、里人たちが、その場所を掘ってみると、頭蓋骨がでてきた。そこで、日山和尚が、その頭蓋骨を袈裟に包んで東禅寺に持ち帰り、地蔵を建てて懇ろに弔ったところ、不思議なことに、何事もなかったかのように、東禅寺が再び栄えたので、いつしか、里人たちは、この地蔵のことを、“ 首塚地蔵尊 ”と呼ぶようになったという。

参考 『 本吉町誌U 』
現地で採集した情報


現地レポート

この伝承は、 江戸時代 の初期、仙台藩の伊達家に起こった伊達騒動と深く関係しているので、まずは、伊達騒動の概要を記述しておく。因みに、一般的には伊達騒動と呼ばれているが、 寛文 年間にあった事件なので寛文事件とも呼ばれている。
【 伊達騒動 】
万治 三年(1660年)、幼少の 伊達綱村 が家督を相続したのだが、その後見役である 伊達宗勝 が、家老の 原田宗輔 らと宗家横領を企てたので、これらと対立ていた 伊達宗重 が、その企てを幕府に訴えた。そのため、その件に関して、寛文十一年(1671年)、大老の 酒井忠清 の屋敷で評定が開かれたのだが、その席上、宗輔は宗重を斬殺し、宗輔も、その場で殺害された。


伊達宗勝と原田宗輔が独裁的な政治をしていた時、その権力の支配下で二人の手先となり、横暴を極めた者たちがいた。その中の一人が 渡辺義俊 であり、反対派を弾圧して徹底的に斬罪にしたため、人心が動揺し、仙台藩は存続の危機に瀕した。当時、義俊の息子である 木葉上人 が、東禅寺の住職をしていたのだが、伊達騒動の後、反対派の反撃が始まり、ある日、木葉上人が、東禅寺の本堂で読経していると、突然、七人の武士が踏み込んできて、木葉上人を無理やり本堂から引きずり出すと、ある柳の下で首を斬り落とした。そして、その武士たちは、里人たちに、「 このことは、黙っていろよ! 」と言い残して立ち去り、里人たちも、義俊の罪を憎んでいたので、木葉上人の遺体は、そのまま放置されたという。この伝承の頭蓋骨は、この木葉上人の頭蓋骨である。上の写真が、首塚地蔵尊。


これが、首塚地蔵尊。これが、首塚地蔵尊。残念ながら、東禅寺は現存していない。



これが、首塚地蔵尊の内部。因みに、木葉上人は 黙融上人 とも呼ばれている。古老の話によると、ずっと、木葉上人と呼ばれていたのだが、三十八年くらい前から黙融上人と呼ばれるようになったという。読み方は同じ。


これは、冷松寺の入口。冷松寺は、登米市にある。



これは、冷松寺の山門。



これは、冷松寺の本堂。



平成 18 年 1 月 12 日 ( 木 ) 掲載
令和 6 年 2 月 16 日 ( 金 ) 改訂


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