
この伝承のポーポー様は、里人たちと仲良く暮らし、林の沢で生涯を終えた。里人たちのポーポー様に対する信頼は厚かったので、ポーポー様の墓を建てて懇ろに弔い、ポーポー様の死後も、病気になった時はポーポー様の墓に参詣し、病気が治るように祈願した。上の写真の赤い矢印が、ポーポー様の墓。
この看板が目印。最初は、いいかげんな手書きの看板だと思ったのだが、よくよく見ると達筆である。

これが、ポーポー様の墓。本吉町誌Uによると、この墓には、次の写真のような文字が刻まれており、梵字も刻まれているという。
寛文 八年十一月二十四日
松山道木 信士
水雲妙寒 信女
院号とは、仏教や社会に対して貢献した人に与えられるものである。そして、道号は、戒名の上につける名であり、その下につける法号( 戒名のこと )は、戒を守ることを仏に誓い俗名を改めたものである。その戒名の下につける文字が、位号である。因みに、この位号は、性別や年齢などで異なる。
ポーポー様は、どのような人間だったのか?そのポイントは、「 1.この里の言葉が分からない。2.墓に梵字が刻まれている。3.『 ポーポー 』という呪文を唱える 」の三つである。1に関しては、外国人であった可能性が高い。同じ日本人でも、方言などにより通じにくいということはあるかもしれないが、全く通じないというのは考えにくいことである。そして、2に関しては、日本で墓石などに梵字が刻まれている場合、仏や菩薩の象徴として使うという側面がある。最後に、3に関しては、本吉町誌Uには、「 他の地方で、十字らしいものをきり『 マメチヨ、コメチヨ、ポーポー 』といって、キリシタン宣教師がまじないをしたというのに似ている 」とある。岩手県藤沢町大籠で激しいキリシタン弾圧があったことは有名であり、林の沢から大籠までは、約7〜8キロしか距離がないことを考えれば、ポーポー様はキリシタン関係の可能性が高い。以上のことから、ポーポー様が、どのような人間だったのかを推量してみると、「 ポーポー様は、外国人のキリシタン宣教師、または、キリシタン信者であったと考えられる。そして、成人した女性を意味する信女という言葉が墓に刻まれているので、その女性が妻なのか、娘なのかは分からないが、家族がいたようである。また、墓に梵字が刻まれていたことと、激しいキリシタン弾圧を免れて林の沢で生涯を終えたことを考えると、キリシタンから仏教徒に改宗した可能性もある 」ということになる。ポーポー様に関しては資料が少ないので、不明な点が多いが、個人的には、ポーポー様の人生が、「 里人たちに何らかの医療行為をしながら、家族と幸せに暮らして生涯を終えた 」というものであったことを願う。
平成 18 年 1 月 17 日 ( 火 ) 掲載
令和 6 年 2 月 16 日 ( 金 ) 改訂
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