伝承之蔵

棚倉の仇討ち
丸森町/筆甫/東山

   天保 年間、この里に、 荒伝左衛門 という足軽が、妻子とともに楽しく暮らしていたのだが、ある日、伝左衛門の妻が、突然、病気で死んでしまった。伝左衛門が、悲しみのあまり仕事もしなくなり、酒ばかり飲むようになっていたところ、これを哀れに思った、 菅野庄左衛門 という長者が、伝左衛門を雇って、いろいろと世話をしたおかげで、伝左衛門は、すっかり立ち直ることができた。

   同じ頃、庄左衛門に空き家を借りていた、 牛之助 という男が、この里で暮らしていた。牛之助は、 牛方 をして生活していたのだが、天保三年の凶作で仕事をなくしてしまったため、 お良 という妻を残して、出稼ぎをすることになった。ところが、牛之助は、お良しに手紙を書くこともなく、仕送りもしなかったため、お良しは生活に困窮し、それが原因で病気になってしまった。これを哀れに思った伝左衛門は、いろいろと世話をしてやるようになったのだが、天保五年五月、それまで音信不通だった牛之助が、ひょっこり、この里に帰ってきたとき、牛之助の仕事仲間だった 六郎 が、「 お良が、伝左衛門と浮気している 」と中傷し、牛之助に密告したため、これに激怒した牛之助は、伝左衛門を殺害し、無残にも、その遺体を焼き捨てて、この里を去っていった。そのことを知った、伝左衛門の子供である十四歳の 音吉 と九歳の 重作 は、仇討ちを決意。その後、牛之助が 棚倉 にいることを知ると、ただちに棚倉に向かい、天保十四年七月二十七日、二人は牛之助を急襲し、見事に、牛之助を討ち取った。この仇討ちの報告を受けた仙台藩主は、この兄弟を称賛し、領地を与えたという。

参考 『 丸森町史 』
現地で採集した情報


現地レポート

赤丸は、荒伝左衛門の供養碑。 筆甫砂川 地区にある。伝左衛門は、この地区で殺害された。因みに、この地区は、ずごい山奥にある。すごいというか…、ふぅんごい山奥!


これが、伝左衛門の供養碑。



この伝承には、「 奥州棚倉ニおいてかたきうちの次第 」という基になった話があり、その話が、形を変えて伝わったようである。奥州棚倉ニおいてかたきうちの次第に関しては、福島県歴史資料館のウェブサイトに詳しいので、そちらを参考にしてください ( 削除されていなければ、ここをクリックすれば当該資料を閲覧できます。削除されていた場合は、ここをクリックしてください )。


基の話では、殺害されたのは木坂権蔵という者であるが、この伝承では、荒伝左衛門に変わっている。しかし、ただ登場人物の名前が変わっただけではないようである。上の写真の赤丸を見ると、それが分かる。


昭和60年11月に建立された、伝左衛門の供養碑には、建立した方たちの名前が刻まれているのだが、荒家の関係者が深くかかわっているようなので、伝左衛門は、架空の登場人物ではなく、実在の人物だと推量できる。同じ頃、殺害された人間なのか、昔あった仇討ちのようなことを棚倉の仇討ちの設定に当てはめたのか、いずれにしろ、何か複雑な背景がありそうなので、掘り下げてみると面白いかもしれない。


平成 17 年 12 月 6 日 ( 火 ) 掲載
令和 5 年 8 月 25 日 ( 金 ) 改訂


地図