伝承之蔵

七郎館
丸森町/大張川張/舘

   文治 五年、 源頼朝 は、 藤原泰衡 を討伐するため、奥州に大軍を向かわせた。泰衡軍の 佐藤基治 は、頼朝軍との戦いを決心したのだが、それは、そのまま死を意味していた。基治には、生まれながらの障害者で、片足が不自由であった 佐藤七郎秀信 という子供がいたので、基治は、「 この戦争で、一族は滅亡するであろう。おまえは、生まれながらの障害者だ。戦って捕虜になるよりは、逃げて天寿を全うするがよい 」と七郎に告げ、七郎を船に乗せて、 阿武隈川 に流した。その後、七郎は、この里に流れ着き、“ 七郎館 ”という屋敷を建てて、この里で、天寿を全うしたという。

参考 『 丸森町史 』
現地で採集した情報


現地レポート

七郎館に関して、この里の古老に聞いてみたのだが、「 ん〜 、聞いたことがないなぁ 」とのことであった。因みに、現在でも、この里に、佐藤という姓が多いのは、この佐藤秀信の末裔であるからだという。


私が、この里を訪れてから6年後、七郎館跡の観光コースが整備されたようである。 ウェブサイト 「 古城盛衰記 」 より画像を引用させていただきました。 次の写真は、このウェブサイトに掲載されていた説明文の写真。


この説明文によると、七郎は、 摺上川 から舟で下り、阿武隈川を経由して、この里に流れ着いた。そして、里人たちは、七郎が最初に建てた小屋があった場所を 下小屋 と呼び、次に建てた小屋を七郎館と呼んだらしい。この説明文に、「 現在、下小屋の字名があるのはこの為である 」と記述されていたので、正確な住所を調べてみたのだが、下小屋という字名はなかった。


しかし、説明文には、明確に下小屋と記述されているので、再確認のため、Google 地図で調べてみたところ、バス停の名称に下小屋を見ることができた。


字名といっても、正式な住所ではなく、地区名のような形で残っているのであろう。



平成 21 年 8 月 2 日 ( 日 ) 掲載
令和 5 年 8 月 29 日 ( 火 ) 改訂