慶半の由来 |
美里町/二郷/慶半 |
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第三代の涌谷城主である 伊達定宗 には、 伊達宗実 という息子がいたのだが、宗実は、才知に優れて判断や行動が早かったので、定宗の寵愛は、たいへんなものであった。また、宗実は、 伊達政宗 にも寵愛されていたので、 寛永 四年、政宗の娘を嫁にもらったのだが、寛永十二年、その宗実夫人が亡くなり、翌年、政宗も、この世を去ると、その後を追うように、寛永十六年、宗実までもが二十九歳という若さで亡くなってしまった。このときの定宗の心の動揺はすさまじく、この世の無常を感じた定宗は、この里に屋敷を建てて隠居することを決意したのだが、屋敷を建てている途中、定宗は、「この里は、涌谷から近いので、宗実のことを思い出してしまう…」と思い、突然、屋敷の建設を中止して、新たに他の里に屋敷を建ててしまった。「涌谷の殿様が、この里に住んでくれる」と思っていた里人たちは、たいそう落胆したので、いつしか、里人たちは、慶びが半ばにして消えてしまった、この里のことを、“ 慶半 ”と呼ぶようになったという。
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