伝承之蔵

栄存法印の呪い 1
女川町/江島/江島

   昔、伊達家の家来に 笹町但馬 という者がいたのだが、但馬は、 牧山 の霊場が荒廃していることに、たいへん心を痛めていた。そこで、但馬は、里人たちの尊敬をあつめていた高徳の僧である 栄存 法印に、その再興を依頼したところ、栄存法印は、見事に但馬の期待に応えて霊場の再興を果たした。ところが、但馬の死後、栄存法印の才能を不快に思っていた 笹町重頼 が但馬の後を継ぐと状況が一変。重頼は、栄存法印の才能を妬むあまりに、無実の罪で栄存法印を 江島 に流罪にしてしまった。無実の罪で江島に流罪になった栄存法印は、自分の潔白が証明されることを願い、昼も夜も祈祷を続けていたのだが、三年後の 延宝 九年二月六日、すべての江島の里人たちを集めて、「 私の遺体は、必ず、逆さにして埋葬してくれ 」と遺言し、天を睨みつけたまま死んでしまった。

   「 私の遺体は、必ず、逆さにして埋葬してくれ 」と遺言された里人たちであったが、「 そんな埋葬をして…、大丈夫なんだろうか… 」と藩からの処罰を恐れ、栄存法印の遺言に反して、その遺体を普通に埋葬したところ、まず始めに、栄存法印の遺体を埋葬した里人が原因不明の病気で死亡。次に、魚が一匹も捕れないという日が何日も続いて漁業が壊滅状態になり、それ以後も、恐ろしい凶事が次々に起こった。困り果てた里人たちは、栄存法印の遺体を掘り出し、その遺言に従って逆さに埋葬して弔うと、不思議なことに、あれだけ続いた凶事が、まったく起こらなくなったという。

参考 『 女川町誌 』
現地で採集した情報


現地レポート

これが、江島の全景。



ここが、栄存法印を最初に埋葬した場所。この場所では、通常の埋葬方法で埋葬した。



通常の埋葬方法で埋葬したところ、江島では凶事が続いたため、里人たちは、 栄存神社 を建てて栄存法印の霊を弔った。上の写真が、栄存神社。


これが、栄存神社の本殿。現在、栄存法印の遺体は、この本殿の中にある。古老の話によると、「 栄存法印の遺体は、数回にわたって移されている 」とのこと。江島で凶事があった時には、決まって栄存法印の遺体を移したらしい。その移動は、直接、この伝承と関係があるのではなく、「 悪い雰囲気を変える 」・「 縁起を担ぐ 」という程度の意味だったという。


古老の話によると、 昭和 十二〜十三年くらいまでは、江島では土葬が中心であり、火葬が中心になったのは戦後になってからとのこと。栄存法印が生きていた時代は、上の図のように土葬していた。栄存法印を逆さに埋葬したのは、かなり異様に見える。因みに、上の図では、あぐらを組んでいるが、その形が決まっているわけではない。古老の話によると、死後硬直には個人差があるため、その形を決めることはできないのだという。


栄存法印が再興した牧山の霊場は、 石巻市 にある。無実の罪で流罪にされた栄存法印は湊を憎んでいたため、毎日、ある場所で呪いの呪文を唱えていた。上の写真が、その場所への入口。


何の準備もして行かなかったので、その場所に行くことはできなかった。未確認の情報なので、何とも言えないのだが、古老の話によると、その場所は、この森の中にあるとのこと。


古老の話をまとめると、森の中への入口あたりに、五〜六段くらいの石段があり、その階段を上って進むと、左右に道が分かれるので、左側の道を進む。しばらく、左側の道を進むと、右側に卵のような形をした石があるのだが、栄存法印は、この何らかの文字が刻まれていた石の上に座って、呪いの呪文を唱えていたという。


栄存法印が、呪いの呪文を唱えながら見ていたと思われる風景。卵のような形をした石の上に座りながら、このような風景を見ていたと推量できる。美しい風景ではあるが、栄存法印は、風景を楽しんでいたわけではない。上の写真の赤い矢印の半島の奥は、石巻市である。そして、その中には湊の町がある。昔、栄存法印の呪文によって、湊の町が大火災に見舞われたことがあったという。この美しい風景の中には、栄存法印の深い恨みが存在している。


平成 17 年 12 月 31 日 ( 土 ) 掲載
令和 6 年 1 月 25 日 ( 木 ) 改訂


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