伝承之蔵

天皇の笛と真野長者
大河原町/金ケ瀬/神山

   昔、この里に、 真野長者 という長者が住んでいた。この長者には、 玉倚姫 という娘がいたのだが、その美しさと人柄の良さは評判で、姫が道を通ると、田圃で働いている里人たちは手を休め、道を歩いている里人たちは立ちどまって、姫の後ろ姿が見えなくなるまで見とれるほどであった。後に用明天皇となる 橘豊日尊 が、京の都から、この里に来たとき、真野長者の屋敷で休憩したことがあったのだが、このとき、皇子は、この姫に一目惚れし、家来たちを京の都に帰すと、 草刈り山路 と名前を改めて、長者の屋敷に住むことにした。

   この長者の屋敷の牛小屋には、どの家人にも引き出すことのできない、たいへん気性の荒い牛がいたのだが、不思議なことに、山路にだけは従順であった。山路は、毎朝、この牛を連れて頼母山へ草刈りに出かけ、ときどき作業の手を休めては牛の背に乗り、愛用の笛を吹いていたのだが、その美しく澄んだ音色は、遠くにある屋敷の中で聞いている姫の心にも響きわたり、いつしか、姫も、山路に想いを寄せるようになっていった。 ところが、突然、京の都から命令がきて、山路は、急いで京の都に帰らなければならなくなってしまった。 山路が帰った後の長者の屋敷は、灯が消えたように寂しくなり、姫の山路に寄せる想いは、ますます大きくなっていった。 長者は、毎日、悲しそうにしている姫を心配し、その理由を聞いたのだが、姫は、ただ涙ぐむだけで、なにも語ろうとせず、そのうち、重い病気になって、家人たちの必死の看病にもかかわらず、ついに死んでしまった。

   たいそう悲しんだ長者は、姫の遺体を丁寧に葬り、涙を流しながら、姫の霊が安らかに眠ることを願った。しかし、このとき、姫の遺体を埋葬した場所の近くにあった大きな木に、なぜか、たくさんの白鳥が集まり、悲しそうな鳴き声を里中に響かせ、何日も何日も飛び去ろうとしなかった。この白鳥たちの様子を不審に思った長者と里人たちが、このことを京の都にいる山路に知らせると、すぐに、山路から、姫の死を悼む手紙と愛用の笛が届けられたので、長者は、姫を埋葬した場所の隣に、この手紙と笛を埋めた。すると不思議なことに、手紙と笛を埋めた瞬間、何日も木の上にいた白鳥たちが、大きく長く鳴いたかと思うと、空高く舞い上がって、京の都の方に向かって飛び去ったという。

参考 『 大河原のざっとむかし 〜 大河原の民話と伝説 〜 』
現地で採集した情報


現地レポート

この伝説の笛は、この里に住んでいる平間家の先祖である 平間惣兵衛 が掘り出し、寛政十年、藩主に献上した。漆塗りの菊花紋章が輝く美しい笛だったという。その為、里人たちは、この伝説の笛が埋まっていた田圃を、 “ お笛田 ” と呼んで敬い、それ以後、決して耕作しなかった。


上の写真の赤い矢印が、お笛田。



残念ながら、この伝説の笛は、現存していない。しかし、この伝説に関する資料が、仙台市博物館に所蔵されている。上の写真は、平間家が、この現存する史料を撮影したもの。以下の写真がそれ。


現存する史料は、四つのみ。上の写真は、最も古い寛政十年のもの。



これは、文政元年五月三日のもの。この伝説の笛を掘り出した功績によって、平間家は、名字帯刀を許された。



これは、文久三年九月のもの。平間家は、この伝説の笛を掘り出した功績によって、藩より広大な土地を拝領した。古老の話によると、 「 頼母山の頂上に立って、笛の穴を通して景色を見ると、その見える範囲が全て平間家の土地だったんだよ 」 とのこと。


上の写真の赤い矢印が、頼母山。



これは、明治四年正月のもの。唯一、残っている笛の図。平間家は、現在の当主で二十代目。もともとは、蔵王から移住してきたのだという。十九代目までは、近くにある香林寺の総代をしていた。昔は、平間家から住職を出すほど、香林寺との関係が深かったという。


これが、香林寺の山門。



これは、香林寺の本堂。



上の写真は、この伝説を平間家の視点から記録したもの。現在でも大切に飾られている。



平成 27 年 2 月 15 日 ( 日 ) 掲載


地図