伝承之蔵

板谷斉兵衛の大蛇退治
大郷町/東成田/板谷西山

   昔、この里に、 板谷斉兵衛 という者が住んでいた。ある朝、斉兵衛が、鴨を撃つために鉄砲を持って 沼沢沼 に行くと、沼の水が赤く染まっていて、何やら、「 グゥ…、グゥ… 」という唸り声が聞こえる。斉兵衛が、あたりを警戒しながら見てみると、沼の水面に浮いている大きな木に大蛇が体を巻きつけて、いびきをかきながら寝ていた。驚き恐れた斉兵衛が、「 これはやばい! 危険だ! 」と思って、逃げようとしたところ、「 斉兵衛…、今だ…、撃つんだ… 」という声がした。斉兵衛が、まわりを見わたしても、不思議なことに、あたりには誰もいなかった。そのとき、斉兵衛は、「 そうか! 今の声こそ、いつも、私が信仰している神の声だ! 」と気づき、勇気をとりもどした斉兵衛が、大蛇に向けて鉄砲を撃つと、見事、大蛇の喉に命中し、大蛇は、木からズルズルと音をたてながら沼の底に沈んでいった。

   斉兵衛は、すぐに屋敷に帰ると、門に御札をはってから、台所の釜で火を焚き、すべての戸をしめて、必死に念仏を唱えた。しばらくして、台風のような強い風が吹いている音がしたが、しだいに弱くなり、その後は、何も変わったことはおこらなかった。ところが、その数日後、斉兵衛の屋敷の近くを流れる川に、大量の油が流れてきたので、斉兵衛が川の上流に行ってみると、板谷家の氏神を祀った祠に、大蛇が体を巻きつけて死んでいたという。

参考 『 利府町誌 』
現地で採集した情報


現地レポート

この伝承の位置関係は、上の図のとおり。



これが、 沼沢 にある沼沢沼。因みに、利府町誌には、“ 後ろ沢の沼 ”とあるが、これは誤り。



このあたりが、斉兵衛を追うときに大蛇が通ったという場所。斉兵衛への恨みの大きさなのであろうか、大蛇が斉兵衛を追いかけてきた時に通った野や畑は、今でも、作物が赤くなって生長が悪いという。


赤丸は、 館山 。このあたりに斉兵衛の屋敷があった。



これが、板谷家の氏神である 板谷神社 。ここには、千手観音が祀られているという。斉兵衛に撃たれた大蛇は、重傷ではあったが、なんとか岸にはいあがって斉兵衛を追いかけた。ところが、屋敷の門に御札がはってあったため、屋敷の中に入れず、しかたなく、板谷家の氏神の祠に巻きついて死んだ。因みに、利府町誌には、“ 板屋 ”とあるが、これは誤り。


斉兵衛の子孫で、板谷家の第十六代である 残間小一郎 さんの話によると、板谷家の氏神は上の図のようになっているという。


これは、 滑川 。大蛇の死後、大量の油が流れてきたという川。



これは、斉兵衛を守ってくれた氏神に対して、その御礼として植えたという桜の木。この桜の木の樹齢は三百年。斉兵衛が大蛇を退治した後、五十年ほどしてから、その子孫が植えた。毎年、四月二十五日前後に桜の花が咲くらしい。特に、桜の名所になっているわけではないが、その美しさに、近くの道を走っている車も、一時停止して、この桜を鑑賞するという。


約五百年前、まだ、 伊達政宗 が岩出山にいたころ、板谷家は、政宗に対して、この里の土地を献上した。その姿勢が政宗に評価され、政宗は、死ぬまで板谷家に仙台の山守を任せたという。


残間小一郎さんの話によると、板谷家は、もともと、平家の落武者の末裔であるという。源氏に敗北した後、この里に流れてきたのだが、その落武者たちに殿様の風格があったので、この里の人たちは、次第に板谷家に従うようになった。残間を名乗るようになったのは、 明治 になってからで、平家の残党の“ 残 ”と、谷間に住んでいたことを表す“ 間 ”とを合わせたものである。


残間家に伝承されている話では、昔、不猟のため、斉兵衛が沼沢沼で昼寝をしていると、今まで見たこともないような大蛇が現われたので、斉兵衛が大蛇を追っていき、見事に、その大蛇を殺したということになっている。その伝承の位置関係は、上の図のとおり。


上の写真の赤丸は、斉兵衛が、大蛇を鉄砲で撃ち殺した場所。



不思議なことに、大蛇が死んだ場所では、現在でも、草木が生えない。



平成 21 年 10 月 13 日 ( 火 ) 掲載
令和 5 年 7 月 21 日 ( 木 ) 改訂


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