伝承之蔵

赤沼の仇討ち
利府町/赤沼/中ノ岫

   昔、白河藩の武士である 富永定勝小針右衛門 は、些細なことから口論となり、激怒した定勝が右衛門を殺害。その後、弟の 富永定重 とともに、藩から逃亡した。そのため、右衛門の息子である 小針彦次郎 は、白河藩の藩主の許可を得て、家来である 片石孫兵衛 と、孫兵衛の息子である 片石嘉兵衛 とともに、仇討ちをするための旅に出たのだが、江戸をはじめ、北陸、出羽、蝦夷にまで行っても、どうしても、定勝たちを発見することができなかった。ところが、盛岡藩に滞在していたとき、定勝たちが仙台藩にいることがわかり、彦次郎たちが、仙台藩に急行したところ、さらに、 石巻松島 で見たとの情報が入ったので、注意深く定勝たちを捜していると、 延宝 二年五月七日、偶然、 赤沼 の道端で、彦次郎たちは、定勝たちと遭遇した。彦次郎たちは、定勝たちに近づくと、「 父の仇、覚悟しろ! 」と叫び、お互いに名乗りあってから決闘が始まった。「 ヤートゥ! エートゥ! 」という叫び声が響きわたり、相手の隙を見て刀を打ち込むこと数十回、ガチッと、刀と刀があたった瞬間の火花は、昼でもはっきりと確認できるほどであった。まずは、定勝が討ち取られ、その数分後には、弟の定重も討ち取られて仇討ちは終わったのだが、彦次郎たちの方も、彦次郎は体の二ヶ所に軽い傷を受けただけであったが、孫兵衛は、深い傷を受けて死んでしまった。その後、父の仇を討った彦次郎たちは、そのことを仙台藩に報告。仙台藩から白河藩に連絡がいき、白河藩の藩主は、彦次郎に、 宇佐美長光 が作った名刀を与えたうえ、二百石の禄で再び家来にしたという。

参考 『 利府町誌 』
現地で採集した情報


現地レポート

上の図は、この伝承の相関図。富永定勝と富永定重の正式名称は、 富永弥太郎定勝富永五郎七定重 である。



利府町誌には、「 享保十七年( 一七三二 )に富永弥太郎の姪にあたる富永道仙なる比丘尼( 尼僧 )が、叔父ら二人の冥福を祈らんがためにたてたもので、それは後世に汚名を流すことをおそれ、これをねんごろに石で彫刻した地蔵様を安置し供養慰霊したものであるという 」・「 最初石像であったところは旧赤沼分校からずっとはなれたところにあった 」とある。現在、この地蔵は、 弥太郎地蔵 と呼ばれている。上の写真の赤丸が、弥太郎地蔵。


これは、近くにあった説明文。



これが、弥太郎地蔵。ん? 正面からでは、顔が見えない。



もしかして…、殺された恨みで、大魔神のような形相になっているのでは…。 ウェブサイト「Yahoo! JAPAN」より画像を引用させていただきました。


ホッ…。しかし、殺されたにしては、なんとも可愛らしい顔だこと…。



因みに、上の写真は、参詣した方の願いごとが書かれたもの。「 金物になりたい 」は「 金持になりたい 」の誤りであろう。金持ちへの第一歩は、漢字の勉強である♪  p( ^ 0 ^ )q  ガンバレ!


近くに、弥太郎地蔵の史詩があったので、そのまま記述しておく。

五月雨晴るるみちのくの   赤沼村の昼さがり   剣豪富永弥太郎が   西に落ち行く折もあれ
とある藁家の木陰より   躍り出でたる武士のあり   白鉢巻に白たすき   抜き身の太刀をひきさげて
「 おのれ弥太郎父の仇   おもひ知れよ 」と叫びつつ   行く手を早も立ちふさぎ   名のるは小針彦次郎
かねて覚悟の弥太郎は   心得たりと編笠を   かなぐり捨てて村正の   名刀はやも鞘走る
「 肉を斬らして骨を斬れ 」   教への如く彦次郎   至孝の太刀を振りかぶる   その武者振りの雄々しさよ
我れは打たれて若人に   孝子の名をば成させんと   小針が太刀を受け流し   土橋の方へ退けば
嗚呼天なるか命なるか   阿元の土の踏み崩れ   よろめく隙に斬りかかる   小針の太刀の鋭さよ
打込む太刀は払へども   最後の太刀はわが肩に   唐紅に染めし血や   延宝の世の夏浅く
武士の情の止めがたく   我れとわが身を殺したる   剣客富永弥太郎が   心のなかぞゆかしけれ
年は移りて享保の   十七年の秋の末   弥太郎の甥道仙が   叔父の冥福祈らんと
僧とはかりてなき跡に   いとにこやかな石地蔵   建立したる菩提心   思ひやるだに哀れなり
昔偲ぶや今もなほ   赤沼里の道端に   春風秋雨二百年   自然とひびも肩に出て
太刀傷のごと思はるる   ああいたましき御姿   旅行く人もふり仰ぐ   武士の情の石地蔵

作者 高橋清水( 利府村 )


平成 21 年 10 月 24 日 ( 土 ) 掲載
令和 5 年 8 月 20 日 ( 日 ) 改訂


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