伝承之蔵

小河稲荷明神
色麻町/四竃/北谷地

   永禄 三年七月四日、この里に住んでいた 小川左馬之助 という者が、ある願いごとがあって、 大和多賀明神 に参詣したのだが、その参詣から帰る途中、左馬之助が 駿河駿府 に滞在したとき、 武田信玄今川氏真 を攻めたため、関所での取り締まりが厳しくなり、左馬之助は困り果てていた。すると、一匹の狐が現われて、左馬之助が関所を通過するのを助けてくれたのだが、その後も、各関所で狐が現われ、同じように助けてくれたので、左馬之助は、無事に自分の屋敷に帰ることができた。「 これは、ありがたいことだ 」と、狐に感謝した左馬之助は、それらの狐を祀り、小川家の氏神として信仰した。

   その後、 天文 三年、この里の領主であった 大崎義直 の次男は、 加美郡黒川郡 との境界争いに頭を痛めていたのだが、ある日、その領主が境界のあたりで、「 ん〜、どのようにして、正確な境界線を決めたらよいのか… 」と思案していたところ、葛の葉をくわえた三匹の白い狐が現われ、その領主の先を歩いて山を踏み分けていったので、その領主は、「 もしかして、これは、神の御告げかもしれない 」と思い、その白い狐が歩いたところを、そのまま、加美郡と黒川郡との境界線として定めた。このころから、狐を祀った小川家の氏神は、“ 小河稲荷明神 ”と呼ばれるようになり、多くの里人たちに参詣されるようになったという。

参考 『 色麻町史 』
現地で採集した情報


現地レポート

これが、小河稲荷明神の鳥居。



左側が、小河稲荷明神の鳥居で、右側が、小河稲荷明神の本殿。



これが、小河稲荷明神の本殿。里人たちには、小河様と呼ばれて親しまれている。



これが、本殿の内部。この小河稲荷明神は、隣に住んでいる 小川昭三 さんによって管理されているのだが、昭三さんは、この伝承に登場する小川家の子孫である。余談ではあるが、色麻町史には、 小川白狐稲荷明神 と記述されているが、この里では白狐はつけずに、小河稲荷明神と呼ぶ里人が多い。また、昭三さんの話によると、「 色麻町史では、“ 川 ”と“ 河 ”を逆に遣っています。小川家では、神社関係では河を遣い、氏名では川を遣います。ただし、いつから、そのような遣い方がされるようになったのかは不明です 」とのこと。


これは、小川家に残っている最古の位牌。位牌の表の部分には、 天和 三年とあるので、今から341年ほど前のものである。また、この位牌には、 定門 という言葉が刻まれているのだが、昭三さんの話によると、定門という言葉は、寺に尽くした者に与えられるものだとのこと。


これは、位牌の裏の部分。「 號姓小川名mэd俊 行年七十六歳 」とある。この 小川重俊 は、小川家の初代だと伝承されている。昭三さんは、「 mは、 但馬 の出身という意味で、рヘ、鍛冶屋をしていたという意味ではないでしょうか。また、立派な位牌であることから、武士であったとも考えられます 」と推量されていた。


昔、小川家の玄関先には、大きなサイカチの木があったという。そのことから、昭三さんは、小川家が、平家の落武者の末裔なのではないかと推量していた。私が、「 どうして、玄関にサイカチの木があると平家の末裔なんですか? 」と聞いたところ、昭三さんは、「 サイカチのサイは西、サイカチのカチは勝ち。つまり、西が勝つ。『 西国の平家が勝つ 』という意味を込めて、サイカチの木を植え、源氏に対して、その意思表示をしたからです 」と答えてくれた。以上のことを総合すると、小川家の初代である重俊は、もともと平家の落武者の末裔で、但馬の生まれ。刀鍛冶、もしくは、武士をしていて、生涯、どこかの寺のために尽くした者であったと推量できる。余談ではあるが、小川家の初代である小川重俊が76歳で死んだのは、1683年。小川重俊の子孫である小川左馬之助が多賀明神を参詣したのは、1560年。大崎義直の次男が領主だったのは、1534年。この伝承の話は上手くまとまっているのに、年代が全て誤っているのは面白い。


平成 21 年 9 月 14 日 ( 月 ) 掲載
令和 6 年 1 月 15 日 ( 月 ) 改訂


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