「 恩愛刃 」 ( 原文 )

   この恩愛刃は、故老の物語を、そのまゝ書きしるししものなり。 そのこと、実に、天明年間にかゝれり。一少女なれども、父のために、身をすてゝ、 讐を復せしなど感ずるにあまりあらむ。今や、事、外国におこれり。この時にあたり、 怯懦、以て、国家の耻辱をとらむか、この少女にも劣るといふべからむ。恩愛は、 父子の間にのみあるものにあらず、国民たるもの、ともにゝゝゝこの刃を振ひ、国家のために、 大なる恨をはらさでやは。予のこの篇を草せしも、徒に文筆を弄びしにはあらざるなり。 明治廿七年八月三日、宣戦の詔勅を拝読せし日

   青森城を去る三十里、東北のかたにあたりて、一大島あり。大島とよぶ。周囲七里余、人家四方をめぐり、 船舶の出入常にたえず。そこに、秋山氏ときこゆるは、最もふるき家なり。当主を義方といひしが、 祖先以来の余沢として、土地の人望一方ならず。館のありしところは、島中の東なる烏頭が浜なり。 この地は、安方の古跡のあるところにて、かの善知鳥といふ謡曲を読みたる人などは、必ずや、 その名を知れるならむ。後を顧みれば、亀山空に聳え、前を望めば、海原雲に連れリ。北の方には、 平四郎崖、唐人浜、外が浜など、おもしろきところ見え、南の方には、末浜、鵠鳴、仏磯、長浦、鰐淵など、 をかしきところ、あまた見ゆ。東西のかたには、小豆島、鷺島、夫婦島など、波の上に浮び、東北のかたには、 あまの苫屋たちならび、松青く砂白きところ、風光明媚、画よりもうるはし。館の高大なるのみならず、 家臣あまたを召し使ふなど、そのさま小諸侯に似たり。本館をはなるゝ三十間ばかり、別館あり。 ことに心をこめてつくれるは、義方隠居の後に住まむためなりとか。

   義方、兄妹二人の子をもてり。兄義正は、生れながらにして、盲者なりしかば、そを別館のかたにおき、 その妹に、定直といふを迎へて、家をつかしむ。定直、子なし。義方、松尾氏の一子静雄の人となりを愛せしが、 こゝに、そを迎へて、養子となさしむ。ほどなく妹うせぬ。定直、妾を迎ふ。時子といひて、心よからぬものなり。 静雄、時子と争ひしことありしが、時子、定直に讒す。定直怒りて、静雄を逐ふ。義方の静雄を迎へしめたるは、 深き考のありてなり。時子の静雄を逐はしめたるは、また深き考のありてなり。この時にあたり、 義方の失望はいかに。時子の得意はいかに。その後、四年ばかりありて、天明七年の秋の末つかた、 義方身まかりぬ。盲者に一人の子あり、愛子とよぶ。その母は、愛子十歳のをりに病みてうせぬ。 祖父義方、愛子をかなしきものに思ひて、常に、そをいつくしめり。義方、臨終の際、義正と定直とを招き、 静雄は、当時、江戸にありといふことなるが、彼は、文に武に心さときものなり。必ずやいみしき人となりて、 たちかへらむ。その上は、愛子にめあはせて、この秋山家はつかしむべしといひ残せり。この遺言や、 義正のためには、愛子のためには、恩か、はた讐か。義方の死後、時子は、いよゝゝわがまゝのみふるまひしが、 定直にすゝめて、前夫の子行勝といふものを養子となしぬ。その後、三年ばかりありて、定直も身まかりぬ。 義正、かの遺言のまにゝゝせむといひしに、時子従はざるのみならず、秋山家に忠義のものは、 前後におひはらひ、館のうちは、悉くわが意中の者のみを以てみたせり。

   床間に、一幅の軸かゝれり。曾我兄弟の図なり。手に松明をもちて、敵営に討ち入らむとするさま、真に逼れり。 その軸の傍に、鎧櫃太刀などかざれり。書架には、和漢の書堆く、机上には、筆硯横れり。人、一たび、 この室に入らむか、自ら、整粛の心を起すならむ。室の中央に蓐をしき、その上に病み臥せるは、これ義正なり。 年は僅に五十路をこえたるのみなれど、その衰へたるさま、一見、久しく病床にありしことは知られなむ。 父なる盲者、愛子をよび、昨日は、琴をきゝしが、今日は、おもしろき書にても、読みきかせずやといふ。 愛子は、いとうれしげに、おほせの如く、書読みて慰めまつらむ。をとつ日の曝書のをり、めづらかなるものは、 とり除きおきはべり。こゝにもてまゐらむかといふに、父は、しばし案じ居たりしが、おもひつきたるさまにて、 それよ、いつぞや、源氏物語をきゝしが、かの残りはいかにといふ。愛子は、かの物語は、 宇治十帖のはじめなる橋姫まですみたりとおぼえはべり。次は椎が本にはべり。かの橋姫なる母君が、 中君を生み給ひて、かくれさせ給ひしところを読みし時、父君には、いたく泣かせ給ひしにあらずや。 椎が本には、大君中君の二姫御子を残し給ひて、父宮の宇治の山寺にて、かくれさせ給ふところなどあり。 さるかなしきものは、中々に、御病のさはりにもやなりはべらむ、他によき書をと請ふ。父は、 なにか思ふところあるものゝ如く、強ひて、そを読ましむ。愛子は、心すゝまねど、争ふべくもあらねば、 読み始めぬ。

   秋深くなり行くまゝに、宮は、いみじう心細く、おぼえ給ひければ、例の静かなるところにて、念仏をも、 まぎれなくせむとおぼして、君達にもさるべきこときこえ給ふ。」といふところにいたり、愛子の声は、 涙にくもりぬ。父は、猶読めといふに、また読みぬ。暁に出で給ふとても、こなたにわたり給ひて、 なからむほど、心細くなおぼしわびそ、心ばかりは、やりて、遊びなどはし給へ。 何事も思ひに得かなふまじき世となおぼしいれそなど、顧みがちにて、出で給ひぬ。」といふところにいたり、 愛子の声は、また涙にくもりぬ。父君、今日は、これにて止めはべらむ、また明日読みはべらむといへど、きかず。 愛子また読む。有明の月の、いと花やかにさし出でゝ、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀、あげさせて、 見出だし給へるに、鐘の声かすかにひゞきて、明けぬなりときこゆるほどに、人来て、この夜中ばかりになむ、 失せ給ひぬると泣くゝゝ申す。」といふところにいたりては、父も泣けば、愛子も泣きぬ。父君、今日は、 これにて止めはべらむといふに、父は、猶きかず。愛子は、いかにの給ふとも、また読む心はべらずとて、 巻を掩ふ。父の心にそむくも、また孝の心にや。

   父も子もしばしことばもなかりしが、父は涙をはらひ、愛子よ、世の中は、かく、さだめなきが常なり。 おのれ、かくばかり、衰弱せし上は、その快復もおぼつかなからむ。汝は、静雄のかへらむを待ちて、 彼とながき契をといはむとすれば、父君、そはまた、なに事をかの給ふ。医師のことばによれば、 日ならず、よくならせ給はむとの事にはべり、さる心細き事なの給ひそと、口にはいへど、 このごろの父のありさま、域は、このまゝにて失せ給ふ事もあらむ。この身にして、かの大君の、 色かはる袖をば露の命にて」といふ御歌のさまにならむには、いかにかせむ。 実におきところなき身とやなりなむと、行末の事さへ思ひつゝけらるるも、またやむを得ざる情ならむ。

   ひるすこしすぐるころ、本館より愛子をよびにおこせつ。父にそのむね告げて行きぬ。時子をはじめ、 人々出て迎へて、もてなすさま常にかはれり。機敏なる愛子は、はやくもそれと悟れり。それとは、 行勝の妻となれよとのこと、これなり。果せるかな、時子は説き出だせり。愛子よ、そなたを招きしは、 他の事にあらず。そなたも今年ははや十八歳なり。一日も早く身を定めて、 かの病み臥し給ふ父君の御心を慰めざるべからず。静雄は、今は行方もわかぬ身なり。 いつかへり来むもわかず。かりに帰りくとすとも、彼を迎ふるが如き事あらば、一家忽ち分裂せむ。 そなたの心は知らねど、行勝の妻とならむには、すべてまとかにをさまらむ。さあらむには、そなたの父は、 やがて行勝のためにも、父にあらずやと説くところ、その弁甚だ侫、その言甚だ巧。愛子にして、 なみゝゝの女ならしめむには、必ずや説きおとされたりしならむ。愛子は、容易に答へず。 いくそたび、いくたび、その返答をもとめてやまず。愛子は、意を決して、 父の心をきゝし上ならではといひはなちぬ。愛子の父は、時子を毒婦と思へり。 その子に、わが最愛の女をめあはすなど、いかでかゆるさむ。父の心をきゝし上と答へたるは、 やがて、その結婚を拒絶したるなり。その答をきゝたる時子の忿怒、それいかに。満面、忽ち朱をそゝきしが、 心まかせにせよの一言を残して、奥へ入りぬ。愛子も、帰らむとて、坐をたつ。簾がくれにのぞき居たるは、誰。 蓋し、行勝その人ならむ。

   父君たゞ今帰りはべりといへば、何事かありしと問ふ。愛子は、やゝ鋭き声にて、 聞くもいまゝゝしき事にてぞはべりしと答ふ。行勝と結婚せよとのことか、 おのれも大かたさる事ならむと思へりなど、互に、時子の奸計を談りあふ。 机上に一通の書牘あり、愛子は、はやくも目を注ぎ、こはこれ、静雄ぬしの書牘にはべらずや。 誰が、いつこより持ち参りたるか、と問ふもあわたゝし。それか、そは、 江戸の藩邸に勤番せらるゝ大沢氏よりわざゝゝおくられたるなり。とくよみきかせよといひも終らぬに、 封おしきりて読む。家出せしより、数ふれば、はや五年、身体すこやかに、朝夕、学問武芸に心をよせをれば、 御心やすくおぼしてよ。このころ承れば祖父の君にも、父君にも、はや世を去り給ひきとかや。 知らぬことゝはいへ、不孝の罪のがるゝところもはべらずなむ。叔父君には、いかにくらさせ給ふか。 愛子の君には、いかにおくらせ給ふか。きくところによれば、時子、今猶あしきこゝろやまず、 家もなにとなくをさまらずとか。この身は、父君に逐ひ出たされたる身なり。たとひ業終へたりとも、 再びかへりて、秋山家をつかむの心はべらず。愛子の君によき婿君をとり給ひて、家をたてさせ給へとあるや、 愛子は読みやみぬ。またくりかへしゝが、またよみやみぬ。父は、慰めつゝ、また読ましむ。一字一涙、 その読むや、はじめの如くすみやかならず。

   愛子は、かなしさやるかたなけれど、父の病のさはりにもやならむと思ひたらむ、 いで薬煎てまゐらせむとて納戸の方へゆきぬ。こゝに女泣き居たり、驚きて、その子細をたづぬるに、 本館のをみなどもに、いたく辱かしめられたりといふ。をのこ、また血にまみれながら走りきぬ。 何事ぞと問ふに、こもまた本館のをのこどもに打たれたりといふ。愛子は、父のもとに来り、 本館の人々のありさまたゞならず。われら彼のいふところに応ぜざりしがため、 脅迫以てあたらむの心とおぼえたり。いかになさば、よくはべらむといふに、父は怒りて本館へ出で行かむとす。 愛子はしばしまたせ給へとおしとゞむるをりしもあれ、本館の方に人々のさわぐ声す。 なにごとならむと耳そばだつれば、口々に盲者を詈るなりけり。盲者はいかにくやしかりけむ、見えぬ目もて、 その声するかたを、うちにらまへたるさま、おそろしといふ他には、またことばもなし。 盲者は、愛子になだめられて、床にいりしが、歯をくひしばりてものをもいはず。 とかくするほどに、日も暮れぬ。夜更けて、庭前に人の足音す。愛子は、しばしも心ゆるさず。

   静雄ぬし、江戸よりかへり給へりと、下女のいふは、夢にはあらざるなきか。 只今人をおこせ給へりと、下女のいふは、夢にはあらざるなきか。ひるの間(ホト)は、人めやあらむ、 今夜、夜ふけて尋ねまゐらせむとのことなりと、下女のいふは、夢にはあらざるなきか。いかでか夢ならむ。 愛子は千秋の思にて、まち待てり。しのびやかに、庭の枝折戸を叩く音す。心ときめきして出で見るに、 水鶏の叩くなりけり。はかられけりと、ふたゝびもとの坐につく。かくすること三たび四たび。蚊遣火の烟、 全く絶えたるころ、また叩く音す。こたびはと思ひて、雪洞、手にして、庭に下りぬ。袖もて半ば掩ひたるは、 風をのみおそるゝにはあらざらむ。やがて、そを伴ひて、椽にのぼす。愛子は、後に心をくばり、今の物音は、 風にてありしかなど、殊更に声高くいふは、他にしのびのものゝあらむをおそれてならむ。雨戸さしかため、 静雄を父のもとへ伴ふ。静雄は、手をつきて、恭しく礼をのぶ。そのさま、まことの父におけるがごとし。 盲者またまことの子と思ひて、その礼をうけしならむ。愛子は泣きながら、このほどの事どもをかたり出づ。 一言一句、静雄はたゞその意外なるにおどろきぬ。ことのこゝにおよびし上は、またいかにともすべからざらむ。 この上は、まげて行勝どのにとつき給へといふや、愛子は、けしきをかへ、そは御ことばともおぼえず。 妾は、君より他に夫と思ふものははべらぬものをといふも、はや涙をふくめり。互にかたらふ心は、 また夜深きに、夏の夜のならひ、杜鵑の一声に、はや明けそめぬ。静雄は、おどろきて、ともかくも、 よく考へさせ給へ、そのうち、またたづねまゐらせむといひて、出で立たむとす。愛子は、 いまだきぬゝゝのわかれといふことは知らず、されど、この暁のわかれは、さるわかれの比にはあらざりしならむ。 静雄は、庭より出でゆきしが、愛子は、椽に出でて見送りぬ。をりしも朝風、さと吹きて、梢の露を払ひしが、 合歓木に夢を残して飛びたつ蝶あり。かの枝折戸のかたへ飛ひゆくを、うらやましと見れば、こはこれ、 まこと一場の夢、静雄の書牘を前におきて、身は机上によれり。
   月の名は、五月なれど、このごろよりのひでりに、池の水もいたく涸れ、庭の苔路も裂けなむとす。 汀に生ふる蓮はさらなり、その葉がくれの沢瀉、河骨にいたるまで、皆うちしをれ、垣のつらなる撫子姫百合、 また力なげなり。かの飛石めぐりて、照る日ににほへる松葉牡丹の他は、皆雨まちがほになむ。 鳴神はるかあなたの海上に音せしが、忽ち一陣の涼風となり、しのぶの軒には、風鈴ひゞきわたり、 芭蕉の上には、雨こぼれきぬ。愛子は、母の墓参にとて、朝まだきより出で行きしが、いまだかへらず。 鳴神やゝおどろゝゝゝしきころ、時子は、腹臣のもの、三人を伴ひて、盲者を音なふ。 なにか説くところあらむとせしが、盲者は、汝等のいふこと、きく耳もたずと、日ごろの鬱憤をこゝにもらせり。 時子もいたく怒り、盲者なればこそ、あはれと思ひてなにくれとかたらふなれ、 そなたの心、さあらむには、こなたにもまた考ふるところありといふや、盲者はうちふるひてあり。 その顔はいかにと詈るや、盲者は、突然、枕頭の刀をとりぬ。時子は、三人のものに目くばせして、 ひそかに出てゆきぬ。時に鳴神いよゝゝおとろゝゝゝし。愛子は、ぬれながら帰りきて、門に入らむとせしに、 左右より二人のをのこ出てきて、愛子の供人を捕ふ。他の一人またあらはれて愛子にせまりぬ。愛子は、 懐劔ぬきはなちて、そをおひはらひ、飛ぶが如くにはしりきて、玄関にいりしに、台所のかたに、はげしき物音す。 家なるをみなをのこもはや捕はれたるなるべし。直に、父の寝所へとかけ入りしに、こはそもいかに。 父は、三人のものどもに手を捕へられ居たり。無礼ものどもなにをかすると、一人をかきのけ、 また一人をかきのくるに、一人はいちはやく愛子を捕へて、もてる懐劔をもぎとり、他の二人は、 刀をぬきはなちて、盲者にむかふ。盲者は、刀を手にしたまゝ、椽に出づ。愛子は、捕へられながら、父君。父君。 それ、左のかたに敵はまはれり。それゝゝ右のかたにめぐれり。前のかた危し、後のかたへもと、 声のかぎりさけぶ。敵は前後よりせまりしが、盲者は、椽の柱によりて、敵をちかづかしめず。 愛子は、狂気の如く、はねのけ、つきのけ、父のもとへかけゆかむとすれど、力あるをのこ、堅く捕へて、 はなたず。鳴神いよゝゝなりわたり、ふりくる雨、盆を傾くるが如し。盲者は、盆栽に跪きしが、 忽ち庭にまろび落ちぬ。こゝぞといひざま、二人のものは、飛び下りて、組みしきぬ。上になり、 下になるさまを、見て居る愛子の心はいかにぞや。父君ゝゝとよばゝれば、敵は、手もて口を掩ふ。 その手を?みしに、ふりはなす。こゝに、足もとなる懐劔拾ひとり、父の上なる敵をめがけて擲つ。 その劔、敵の頭上をかすめしが、その敵、うちおどろきて逃げ去りぬ。他の一人もいかにおそれたるらむ、 つゞきて走りぬ。のがすべきかはとて、跡おひしものゝ、父の事、心にかゝるをいかにかせむ。 かへりきて父を見れば、たふれたるまゝ、おきもあがらす。愛子は、ぬれたる父の頭をもたげ、 父君々々とよべどしばしは答へず。父の手を肩にかけ、からうじて、椽にのぼせは、のぼせたれど、 流血淋漓、にはだつみ、またあかくならむとす。

   秋山家に、一振の刀を蔵む。その長さ、九寸に過ぐる七八分ならむ。希代の銘刀なり。 その祖先、藩祖公に従ひて、数度の戦争に出でしが、軍功ことにすぐれたりとて、 手づから賜はりたるものなりとぞ。さては、この家を相続するものは、必ず伝へらるゝが例にて、 こを伝へられざるかきりは、家を相続しても、まことの相続者とは認められざりしなり。 さなり、この刀のために、家の騒動をひきおこしゝこともすくなからざりきとかや。 その日の夕つかた、盲者は、愛子に、麻上下を出たさしむ。そを着たるや、しばし端坐してありしが、 たちて、例の刀をとり出たす。服紗を解けば、箱の表には恩愛刃の三字をしるせり。そを愛子の前にすゑ、 これこそは、かねてはなしゝ我家の重宝なれ、祖父の君、特にこをおのれに伝へ給へり。おのれは、 かゝる手創を負へるのみならず、心ち甚だなやましければ、今夜のうちにも身まからむか。 今こをそなたに贈らむ、謹みてうけよ、そなたは、まだ知らざらむ、このころよりの騒動は、 時子等が、この刀を奪はむの心に外ならず。おのれ、命をしくば、こを彼にわたさむ、 祖父の君の遺言のあるにもかゝはらず、猶この刀を奪ひて、わが子を立てむとするなど、 にくむべきにあらずや。箱なる三字は、この盲者のおのれが、みづからかきしるせるなり。 蘇軾、児を失ひし時、仍将恩愛刃、割此衰老腸といへり。親子恩愛の情、まことにさもありなむ。 されど、蘇軾の恩愛刃は、無形なり。おのれは、有形の恩愛刃もて、この衰老の腹をたちしこと、 そもゝゝいくたびぞやといふや、愛子は、うち伏したるまゝ、しばしは、頭もあげ得ず。 あはれ、この恩愛刃、豈に衰老、否、父の腹を割くのみならむや。夜にいりたれど、空猶晴れやらず。 外のかたを見るに、あやめもわかぬやみなれど、今夜は庭の灯籠に火を点するものもなし。

   夜も明けたらむ、遠かたに鐘の声す。かの宇治の山寺の鐘ならねど、その声の常よりかなしきは、 父の無常を告ぐとにや。夜中よりたゞならざるけしきなりしが、この暁にいたりて、いよゝゝあつしくなりぬ。 はや、ながくはおはせぬならむ、今一たび静雄ぬしにあはせまつるべきすべはあらぬものにやと、 愛子は心も心ならず。その日は、空なにとなう暗くして、朝日の影も見えず。枕頭にありて、始終、 父を扇ぎ居りしが、床間に立てたる琴、絃絶えて、おのづから声あり。うちおとろきて、父の顔を見れば、 父はねぶるが如く、永き眠につきぬ。

   盲者の身まかりぬときくや、本館より、時子行勝などたつねきぬ。父の病気のをりは、 たつねしこともあらぬ人、父を殺さむとまではかれる人、かくなさけありげにとひくる、 その心は大かたはかり知られなむ。愛子は、さかさまにたてまはしたる屏風のうちより、 香の烟のたちのぼるを見ても、たゞ消えいるおもひす。思へば、先つ日、しひて、椎か本を読ませ給ひしが、 かねてかくならせ給ふことゝ知らせ給ひしならむ。そのをりは、おのれも悲しかりしが、かの書にあるが如く、 かく、おくれまつらむとは思はざりき。かの大君は、父宮にわかれ給ひて、いかに悲しくおはしたらむ。 されど、中君といふ妹君ましませり。さては、また御心を慰め給ひしこともおはせしならむ。姉もなく、 妹もなきこの身、いかにして、この世をおくらむと、死骸を抱きて、泣きさけべど、死者は知るべくもあらず。

   世におはするほどは、見ることもかなはせ給はざりし庭前の花、今こそ折りきて見せまつらめと、 庭におりたつ。まつ、目につきしは撫子の花なり。ちかよれば、はや夕露しげくおきたり。 わが身にかゝりし親のめぐみは、これよりも猶しげかりしをと思ふにつけても、まづぬるゝは袂なり。 露ながら手向けむとて、静かにそを折りとりぬ。露のこぼれざるのみならず、 その露のいよゝゝおきまさるやうなるは、露、そのもののみにはあらざるにや。 暮るゝやがて、僧どもきて、経を読む。愛子はしばしきゝ居たりしが、思ひにたへで、椽に出づ。 軒に蛍籠かゝれり。それよ、この二日三日、水あたふることも忘れてありけりとて、水をそゝぎかくるに、 かすかに青き光を放てり。あはれと思ひて、戸をひらきしに、ひとつ飛びて、軒のしのぶにやとれり。 なれもまたなき人をしのぶかと見るほどに、またひとつ飛びぬ。こたびは、窓なる小笹の上にやどれり。 その光に見れば、親竹のたちさかゆるその中に、ことし生ひの若竹まじれり。かの竹すらも親はあるものをと、 ひとり身のうきふしを数ふるも、いかにあはれなることならむ。

   その夜は通夜とて、本館より人々あまたきぬ。次の夜も、また次の夜も、大かたおなじさまなり。 さはいへ、その人々は、寧ろ、盲者の死をよろこべるもののみなれば、愛子は、敵の城中に捕はれて、 僅かに父の死骸を守るが如き思ひをなせり。夜ふけて、すこし風吹きたちしが、波の音いとあらし。 かの宇治の川波の如きは、ものゝ数にもあらぬにや。時子は、泣き居る愛子にむかひ、人は生あれば、 必ず死あるものなり。父君のこと悲しくおはすならむ、されど、こもうき世のならひ、 またいかにともすべからざらむ。たゞ後を大事にし給へ、葬儀のことは、行勝、心をこめて、 なにくれとはからへり。安心してよなと、説くところ情ありげなり。時子ことばをつぎて、 それよ、父君の、もち給ひたる宝刀はいかゞし給へるか、この五月のころことに汐風吹くをりは、 一日に二たび三たび拭はねば、銹を生ずるものとこそきけ。よく拭ひ給ひてやと、時子、 自身の心の銹をいひ出だすもをかし。
   盲者のうせしより三日ありて、葬送の式を行ふ。菩提所なる西光寺より、迎の僧どもあまたきぬ。 愛子も棺の供して出で行きぬ。磯づたひ行くこと十余町、山あり。蠑螺山といふ。その山の麓を過ぎ、 行くこと、二町あまり、野あり、芦野といふ。地蔵堂などありて、さびしきところなるが、 そこ過ぐるほどは、愛子自身も死出の旅路を行く心ちす。母君の葬送のをりも、こゝを過ぎぬ。されど、 そのをりは、年またいとけなかりしかば、かくまでかなしとは思はざりき。かつ、 母君はおはせずとも、父君のあるありと心を慰めしこともありき。今よりはなにをたのみて、 世をおくらむと思ふ思ひは、道に生ひしげる夏草よりも、実にしげくなむ。寺にやゝ近づきたるなるべし、 鐘声しきりにひゞきぬ。愛子は、人々にたすけられて、惣門のうちに入りぬ。仏の名はわかねど、 うるはしうかざれる堂の中央に、父の棺はすゑられたり。愛子は、はやものもおぼえず。 寺の後なる老杉陰暗きところは、これ母の墳墓のあるところ、父ををさめむとするところは、 やがて、その傍なり。式終りぬ。愛子の愛は、こゝに全く地下に葬られぬ。

   葬儀終りて、いまだ七日も経ざるに、本館にては、酒宴を張れり。夜にいりて、人々の歌ひ舞ふ声いとさわがし。 愛子はいきとほろしさに堪へず、たち出でゝ、しばし、きゝ居りしが、またもとの坐につきぬ。 おもひせまりてうち案ずるをりしも、ふと目につきしは、床間の軸なりけり。男女のかはりこそあれと、 ひとりうちうなづきぬ。やがて、灯火をかきたてゝ、書を認む。をりゝゝ涙を落すを見れば、 静雄へのかきおきならむ。認め終るや手なる数珠とりて経机に擲つ。更に、位牌の前なる恩愛刃をとりしが、 これにてといふや、いな、鞘を払ふ。霜刃凛として、夏猶寒し。夜はやうゝゝ更けわたりぬ。行勝をはじめ、 人々は、皆酔ひて、眠につきたらむ、今はたゞ時子の月に対して、ひとりかきならす琴の音のきこゆるのみ。 かの曲の終らざるさきにと、庭に下りたつ。海のかたより浮雲出で来しが、月の影、俄に暗うなりぬ。
   今まで聞えし蛙の声の急にとまれるは、はや忍び入りたるなるべし。琴の音の半ばにてとまりたるは、 それと知りて、ひきやみたるなるべし。父の讐とよばゝる声す。気にても狂ひしかと詈る声す。 灯火もてことさけぶは、はや灯火も消えたるなめり。ものゝちる音するは、 棋石などを投げたるにはあらざるなきか。琴柱のはぬる音するは、鋭き刃をうけたるにあらざるなきか。 筆立のたふるゝおとす、机につまつきたるは誰ならむ。障子の破るゝ音す、椽のかたにころびたるは誰ならむ。 遁ぐともにがさむやといふ声す、手負ひてにげたるにや。おのれと呼びとむる声す、 おひつきて後へひきもどしたるにや。斬りたるか、はた斬られたるか、物音、全くきこえずなりぬ。

   しばしありて、庭の門なるそのうちに、小笹のさやく音す。門によぢのぼるさまなりしが、 見れば、その人は、愛子なり。口には血にまみれたる恩愛刃をくはへ、手には、片袖につゝめるものもてり。 時に、浮雲あとなく晴れて、亀山の高根のあたり、涼しき月、その影をあらはせり。かくて、 門より飛び下りしが、やがて見えずなりぬ。その行方はいづこ、かの西光寺、即ち父の墳墓のあるところならむ。

『 落合直文著作集U 落合秀男編 』


@原文中にある、二文字以上にわたる“ 踊り字 ”は、その文字数にあわせて、“ ゝ ”で記述した。
(例)ともにともに→ともにゝゝゝ。

A原文中にある“ ふりがな ”は、( ふりがな )で記述した。


平成18年2月22日(水)掲載