伝承之蔵

芳子の悲
登米市/迫町新田/山居

   昔、 長沼 の周辺が一面の草地であったころ、仙台藩は、その開拓のために二人の役人を派遣した。その二人の役人は、この里にある屋敷に住むことになったのだが、その屋敷には、世にも美しい 芳子 という十六歳の娘がいて、親孝行で働き者だった芳子は、若者たちの憧れの的であった。そのため、この二人の役人も芳子に恋をしてしまい、やがて、その二人の役人が、芳子をめぐって争うようになる。不仲になった二人の役人が、仕事でも対立し合っていることを知った芳子は、とても責任を感じて心を痛めることになってしまった。

   このころ、長沼の堤防の中でも一番の難所といわれた 一ノ曲 の堤防が、雨が降るたびに決壊したので、里人たちは、「誰かを人柱にすれば、決壊しなくなるのでは…」と思い始めていた。そのため、芳子は人柱になることを決め、自ら長沼に身を投じて死ぬと、その後、この二人の役人の争いもなくなり、一ノ曲の堤防の決壊もなくなったという。

参考 『 迫町史 』
現地で採集した情報


現地レポート

上の写真は、芳子の慰霊碑。新田中学校の敷地内にある。当時、芳子を不憫に思った里人たちが、芳子の墓を建てたのだが、迫町史によると、その墓は、「 大形小友 の境にあって、無彫刻の自然石が三つ立っている」とのことである。因みに、芳子が長沼に身を投じてから、七日七夜、長沼の底からは、芳子のすすり泣く声が聞こえたという。


これは、 宮城県登米市迫町新田大形。



これは、 宮城県登米市迫町新田小友。



上の写真の赤線は、大形と小友の境。約22年前に、この伝説を調べた時は Google マップがなかったので分からなかったが、現在は、この周辺で取材すれば、芳子の墓がどうなったのか分かるかもしれない。


平成 17 年 7 月 31 日 ( 日 ) 掲載
令和 8 年 2 月 17 日 ( 火 ) 改訂


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