伝承之蔵

今こそ甦れ、山添喜三郎の心よ!
登米市/登米町寺池/桜小路
登米市/登米町寺池/中町

   昔、 山添喜三郎 という建築技師が、この里に現在も建っている 登米高等尋常小学校 の校舎の建築をしたのだが、喜三郎の建築に対する情熱が激しかったため、その妥協を許さない姿勢は、しばしば、会社や大工との間でトラブルを引き起こすこととなった。当時、洋風の建築になれていない大工が多く、校舎の建築に莫大な時間がかかってしまったため、大工の給料を工面するために多額の借金をしていた会社が、その借金を返済することができず、社長が夜逃げ同然で姿を消すということも珍しくなかった。

   喜三郎は、「納品された瓦の重さを一枚ずつ量り、一晩、水に漬けてから、翌日、また、瓦の重さを量る」という方法で、校舎の屋根に使用する瓦の吸水量を調べたのだが、ある一定の水準に及ばない吸水量の瓦を、「これは、不良品だ!」と言って、そのすべての瓦を会社に返品したため、瓦を納品していた会社が次々と倒産してしまった。また、校舎に使用する木材も同じように厳しい検査をしたため、「不合格になって返品された木材で、もう一つ学校が建つのでは…」と噂されるほど多くの木材が返品となり、木材を納品していた会社も次々と倒産の寸前まで追いつめられてしまった。そして、喜三郎は、その建築に対する厳しさのため、里人たちに恨まれることも多かった。ある日の朝、喜三郎が検査で校舎の屋根に上ったところ、里人たちが梯子をはずしたため、そのまま、夕方まで屋根から下りることができなかったということもあったし、里人たちが喜三郎の乗っていた人力車に近づいて、人力車ごと喜三郎を堀の中に突き落とすということもあった。

   しかし、一切の妥協を許さない喜三郎の仕事に対する忠実さは、当時の里人たちにとっては極めて厳しいものではあったものの、建物を建てるという責任の重大さを十分に理解していた喜三郎によって建てられた校舎は、堅牢にして優美であり、この里が後世に誇ることができる立派な建築物となって、現在も、その気高い雄姿を私たちに見せつけている。

現地で採集した情報


現地レポート

上の写真は、山添喜三郎。幕末の江戸で、棟梁である 松尾伊兵衛 に師事した。 明治 六年には、明治政府が初めて参加したウィーンの万国博覧会で、日本家屋や神社などを展示した日本館の建築にあたったり、三年の間、ヨーロッパに滞在して西洋建築に対する深い知識を修得した後、宮城県の建築技師となり、登米高等尋常小学校や 登米警察署庁舎 などの公共建築に従事した。


これが、明治二十一年に完成した登米高等尋常小学校。和風の建築物ではあるものの、部分的に洋風の技法を取り入れた和洋折衷となっており、明治時代の学校建築を代表する貴重なものである。昭和三十八年七月、県の重要文化財に指定され、同五十六年六月、国の重要文化財に指定された。現在は、教育資料館になっている。(株)とよま振興公社の資料によると、建築にかかった日数は506日。総事業費は、5874円73銭1厘であったという。


因みに、5874円73銭1厘が、当時の里人たちにとって、どのくらいの金額なのかを計算すると、上の図のようになる。ウェブサイト「自転車広場」によると、明治二十五年には、10kg の米が67銭で売買されていたとのことであり、 ウェブサイト 「 農林水産省 」(ここをクリック)によると、 平成 十九年十月分の国民一人あたりの米の消費量は、4889g とのことである。明治二十五年の米の消費量と平成十九年の米の消費量を単純に置き換えることには問題があるが、上記のデータを総合すると、登米高等尋常小学校の総事業費は、明治二十五年に生きていた一人の里人が、1494年と半年の間、米が食べられるほどの金額ということになる。


これは、教育資料館(旧登米高等尋常小学校)。赤い矢印の校門は、昭和五十四年三月に再建されたもの。明治二十一年十月九日に落成した校門は、県の重要文化財に指定されていたのだが、 昭和 五十三年六月の宮城県沖地震により倒壊してしまった。


これは、明治二十一年十月九日に落成した校門の一部。



これは、校門の説明板。



これは、明治二十一年十月九日に落成した校門の門柱頭飾り。



これは、登米高等尋常小学校の校章。この里の初代の領主である伊達家と葛西家の家紋の下地に登米の登を配している。


赤丸は、生徒用の玄関。この生徒用の玄関は、 六方 と呼ばれている。



これは、六方の小屋組み。当時、和風建築に慣れていた大工たちは、この部分の施工に苦労した。



この六方の基礎部分は極めて堅牢なものであり、数回にわたる地震や洪水などにも耐え、百年という歳月を経た今日でも、ほとんど狂いがないという。


これは、基礎部分に関する説明板。



これは、 半鐘 。大正五年から昭和十四年三月ごろまで、授業の始業・終業の合図として鳴らされていた。



当時、使用されていた電話。



当時、使用されていた機械が多く展示されている。



明治二十一年に建築した当時の瓦などが展示されている。この校舎の保存修理に使用された瓦は、およそ40000枚。建築した当時の瓦が12000枚で、新しい瓦が28000枚。


ここは、裁縫室兼講堂。部屋の広さは、七十六畳もある。



裁縫の道具が多く展示されている。



これは、アイロン。



これは、ミシン。



ここは、再現教室。当時の授業風景が再現されている。昔は、十分な照明施設がなかったため、窓からの光や壁の色などで明るさを確保していた。


当時の机。



蓋をあけると、道具が入るようになっている。



これは、達磨ストーブ。



教科書などもリアルに再現されている。赤い矢印は、低学年の学習用具である 石盤 。石盤は、ポータブル黒板のようなもの。昭和八年ごろまで使用されていた。


昔の雰囲気が伝わってくる。



これは、 角火鉢 。明治後期から昭和初期まで使用されていた。



これは、ゴミ箱。



これは、廊下。



ここで問題。赤い矢印は何でしょうか?正解は次の写真で。



正解は、傘立てでした。



ここは、校長室。



これは、バルコニー。中庭で集会をした時、このバルコニーから校長が訓令をした。



校長室前のバルコニーからは…。



全ての教室を見ることができる。



これは、バルコニーからの風景。



赤い矢印は、 敷居水抜き穴 。雨水が溝にたまって腐食するのを防止している。



そして、排水性や耐久性を良くするために、穴には亜鉛管が埋め込まれている。



これが、亜鉛管。



いろいろな遊び道具が展示されている。



これは、お手玉。



左から、けん玉・ 独楽 ・おはじき。



現在も、登米高等尋常小学校が完成するまでの、喜三郎と里人たちとの心の葛藤を題材とした演劇を催したりして、喜三郎に対する尊敬と感謝を表現している。


上の写真は、旧登米警察署庁舎。明治二十一年、金成警察署登米分署が登米警察署に昇格。明治二十二年、総事業費2700円をかけた登米警察署庁舎が、喜三郎によって建築された。この旧登米警察署庁舎は、宮城県内で唯一の明治時代の洋風事務所建築であり、県の重要文化財に指定され、現在は、警察資料館になっている。


因みに、2700円が、当時の里人たちにとって、どのくらいの金額なのかを計算すると、上の図のようになる。ウェブサイト「自転車広場」によると、明治二十五年には、10kg の米が67銭で売買されていたとのことであり、 ウェブサイト 「 農林水産省 」(ここをクリック)によると、 平成十九年十月分の国民一人あたりの米の消費量は、4889g とのことである。明治二十五年の米の消費量と平成十九年の米の消費量を単純に置き換えることには問題があるが、上記のデータを総合すると、旧登米警察署庁舎の総事業費は、明治二十五年に生きていた一人の里人が、687年の間、米が食べられるほどの金額ということになる。


いろいろな警察関係の展示物がある。



これは、取り調べを描いた絵。下の写真が、実際の取り調べ室。



これが、取り調べ室。



取り調べ官から見た風景。



これは、消防関係の展示物。日本では、 寛永 六年ごろから組織的な防火・防災活動が行われるようになった。例えば、寛永二十年ごろの大名火消し、 万治 元年ごろの 定火消し享保 三年ごろの町火消しなどがそれである。


明治時代になると、武家による火消しは廃止され、町火消しのみが消防組と改名されて残った。その後、昭和十四年、戦時体制の時に消防組が警防団と改名され、戦後の昭和二十二年、警防団が消防団と改名されて現在に至っている。


これは、 寛政 十年ごろに使用されていた水鉄砲。



これは、細田式強圧不断消火ポンプ。 大正 中期から昭和初期ごろまで、一般家庭・官公庁・学校・デパートなどで使用され、農家では、消毒・殺虫・散水のために使用された。


これは、細田式強圧不断消火ポンプの使用方法。



他にも、火災現場で屋根などを破壊する道具・手で回すサイレン・鐘などが展示されている。



これは、留置場。この庁舎を復元するための工事中に、偶然、当時の留置場の基礎を発見。全国的にも珍しい明治時代の留置場を再現することができた。


これは、留置場の中。広さは、 二間 × 一間半 。赤い矢印は、トイレ。



これが、トイレ。当時、このトイレの中には瓶が埋まっていた。この狭い留置場の中で臭い匂いを嗅ぎながら御飯を食べたので、刑務所に入ることを、「臭い飯を食いに行く」と言うようになった。


この留置場の鉄格子は、明治二十二年のもの。



ここは、署長室。明治二十二年から昭和四十三年まで、七十九年間も使用された。



これは、明治三十年ごろ、署長が使用していた卓上電話機。



これは、署長の制服。



これは、署長室にある金庫。



これは、二階への階段。



昔、庁舎内が土足だったため、警察官が履いていた靴底の によって階段がすり減ってしまった。



二階にも展示物がある。



これは、バルコニーからの風景。このバルコニーは遠見台とも呼ばれ、ここから北上川の船着き場や繁華街などを監視していた。因みに、窓ガラスから見た風景が歪んでいるのは、明治二十二年に建設した当時のガラスが、そのまま使用されているからである。


平成20年1月16日現在、耐震強度の偽装問題や食品表示の偽装問題など、さまざまな不正が発覚している。真面目に仕事をしている職人さんの方が圧倒的に多いとは思うが、何とも寂しい話である。職人さんには、今こそ、喜三郎のような人間がいたことを思い出して欲しい。恥ずかしい話ではあるが、私は、人より優れた特別な技術を持っているわけではない。しかし、職人さんは違う。職人さんの持っている技術は人を幸せにすることができるので、どうか、その技術を正当に使っていただきたい。「なぜ、このような問題が繰り返されるのであろうか?」と考えた時、高い技術を習得することよりも大切なことが欠けている、いや、忘れているということに気づく。職人さんには、もう一度、初心に返って頑張ってもらいたいと思う。私も含めてのことですが、「初心忘るべからず」という言葉の実行は、口で言うほど簡単なことではなさそうである。


平成 20 年 1 月 16 日 ( 水 ) 掲載
平成 20 年 1 月 21 日 ( 月 ) 改訂
平成 20 年 2 月 25 日 ( 月 ) 改訂
令和 8 年 3 月 2 日 ( 月 ) 改訂


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