今こそ甦れ、山添喜三郎の心よ! |
登米市/登米町寺池/桜小路 |
登米市/登米町寺池/中町 |
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昔、 山添喜三郎 という建築技師が、この里に現在も建っている 登米高等尋常小学校 の校舎の建築をしたのだが、喜三郎の建築に対する情熱が激しかったため、その妥協を許さない姿勢は、しばしば、会社や大工との間でトラブルを引き起こすこととなった。当時、洋風の建築になれていない大工が多く、校舎の建築に莫大な時間がかかってしまったため、大工の給料を工面するために多額の借金をしていた会社が、その借金を返済することができず、社長が夜逃げ同然で姿を消すということも珍しくなかった。 喜三郎は、「納品された瓦の重さを一枚ずつ量り、一晩、水に漬けてから、翌日、また、瓦の重さを量る」という方法で、校舎の屋根に使用する瓦の吸水量を調べたのだが、ある一定の水準に及ばない吸水量の瓦を、「これは、不良品だ!」と言って、そのすべての瓦を会社に返品したため、瓦を納品していた会社が次々と倒産してしまった。また、校舎に使用する木材も同じように厳しい検査をしたため、「不合格になって返品された木材で、もう一つ学校が建つのでは…」と噂されるほど多くの木材が返品となり、木材を納品していた会社も次々と倒産の寸前まで追いつめられてしまった。そして、喜三郎は、その建築に対する厳しさのため、里人たちに恨まれることも多かった。ある日の朝、喜三郎が検査で校舎の屋根に上ったところ、里人たちが梯子をはずしたため、そのまま、夕方まで屋根から下りることができなかったということもあったし、里人たちが喜三郎の乗っていた人力車に近づいて、人力車ごと喜三郎を堀の中に突き落とすということもあった。 しかし、一切の妥協を許さない喜三郎の仕事に対する忠実さは、当時の里人たちにとっては極めて厳しいものではあったものの、建物を建てるという責任の重大さを十分に理解していた喜三郎によって建てられた校舎は、堅牢にして優美であり、この里が後世に誇ることができる立派な建築物となって、現在も、その気高い雄姿を私たちに見せつけている。
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現地レポート |
![]() これは、明治二十一年十月九日に落成した校門の一部。
これは、校門の説明板。
これは、明治二十一年十月九日に落成した校門の門柱頭飾り。
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赤丸は、生徒用の玄関。この生徒用の玄関は、
六方
と呼ばれている。
これは、六方の小屋組み。当時、和風建築に慣れていた大工たちは、この部分の施工に苦労した。
これは、基礎部分に関する説明板。
これは、
半鐘
。大正五年から昭和十四年三月ごろまで、授業の始業・終業の合図として鳴らされていた。
当時、使用されていた電話。
当時、使用されていた機械が多く展示されている。
ここは、裁縫室兼講堂。部屋の広さは、七十六畳もある。
裁縫の道具が多く展示されている。
これは、アイロン。
これは、ミシン。
当時の机。
蓋をあけると、道具が入るようになっている。
これは、達磨ストーブ。
昔の雰囲気が伝わってくる。
これは、
角火鉢
。明治後期から昭和初期まで使用されていた。
これは、ゴミ箱。
これは、廊下。
ここで問題。赤い矢印は何でしょうか?正解は次の写真で。
正解は、傘立てでした。
ここは、校長室。
これは、バルコニー。中庭で集会をした時、このバルコニーから校長が訓令をした。
校長室前のバルコニーからは…。
全ての教室を見ることができる。
これは、バルコニーからの風景。
赤い矢印は、
敷居水抜き穴
。雨水が溝にたまって腐食するのを防止している。
そして、排水性や耐久性を良くするために、穴には亜鉛管が埋め込まれている。
これが、亜鉛管。
いろいろな遊び道具が展示されている。
これは、お手玉。
左から、けん玉・ 独楽 ・おはじき。
![]() いろいろな警察関係の展示物がある。
これは、取り調べを描いた絵。下の写真が、実際の取り調べ室。
これが、取り調べ室。
取り調べ官から見た風景。
これは、
寛政
十年ごろに使用されていた水鉄砲。
これは、細田式強圧不断消火ポンプの使用方法。
他にも、火災現場で屋根などを破壊する道具・手で回すサイレン・鐘などが展示されている。
この留置場の鉄格子は、明治二十二年のもの。
ここは、署長室。明治二十二年から昭和四十三年まで、七十九年間も使用された。
これは、明治三十年ごろ、署長が使用していた卓上電話機。
これは、署長の制服。
これは、署長室にある金庫。
これは、二階への階段。
昔、庁舎内が土足だったため、警察官が履いていた靴底の
鋲
によって階段がすり減ってしまった。
二階にも展示物がある。
平成 20 年 1 月 16 日 ( 水 ) 掲載
平成 20 年 1 月 21 日 ( 月 ) 改訂
平成 20 年 2 月 25 日 ( 月 ) 改訂
令和 8 年 3 月 2 日 ( 月 ) 改訂
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