名木沢の紋兵衛 2 |
宝暦 年間、 名木沢 に 紋兵衛 という 狩人 がいた。 ある日、紋兵衛が、 君ヶ鼻山 で狩をしていると、突然、大蛇が襲ってきた。紋兵衛が、 無我夢中 で鉄砲を撃つと、大蛇の左眼に弾があたった。 すると突然、雷とともに激しい雨が降りだし、大蛇は森の中に姿を消した。 その翌日、紋兵衛は病気になり、十二年の間、寝たきりになった。 また、紋兵衛の親戚の多くが病気になり、紋兵衛と同じように、寝たきりになってしまった。 里人 たちは、“ オカミサマ ”や“ 八卦置き ”に頼んで、占ってもらった。すると、その占いに大蛇が現われて、 「 あの後、名木沢川の激流に流されて海にでた。しかし、どこへも行く場所がない。 しかも、左眼を失って苦痛だ。どうか、お堂を建てて、みんなで拝んでくれ 」と言った。 「 どこに建てればいいんだ?」と聞いたところ、「 唐桑の御崎に建ててくれ 」と答えた。 そこで、里人たちは、唐桑の御崎に、お堂を建てた。 しかし、お堂を建てても、大蛇に対する恐怖心は、そのまま残った。 そのため、里人たちは、けっして昼間は参詣しなかった。 大蛇が寝静まった夜中に、参詣したという。 参考『 気仙沼市史 Z 民俗・宗教編 』
現地で採集した情報
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“ 名木沢の紋兵衛 2 ” 写真館 |
これが、紋兵衛の供養碑。平成三年十月十二日の台風二十一号により、この供養碑が、下の道路に転落したという。 この供養碑には、「 元文 三年九月二十三日 」と刻まれている。 また、「 御 祈祷 之 念仏 供養 」を 百万遍 したとある。 これが、「 御祈祷之念仏供養 」の道具。 左の道具は、「 カン・カン・カン 」と音がでる。 ボクシングのゴングの子供用といった感じ。 右の道具は、 数珠 のようなもの。念仏を、何回、唱えたのか数えるための道具でもある。 上記の写真の赤丸のようになっていれば、 念仏を、二回、唱えたということになる。 これは、前述の、数珠のようなものを、さらに長くしたもの。 「 御祈祷之念仏供養 」のことを、里人たちは、“お念仏”と言っていた。 お念仏の、やり方は、上記の図の通り。 中心にいる人間が、数珠のようなものを持ち、カン・カン・カンと、ゴングのようなものを鳴らす。 全員が「 南無阿弥陀仏 」を唱えながら、時計回りに、長い数珠のようなものを回す。 これを、百万遍も繰り返したと供養碑には刻まれている。 前述の、数珠のようなものは、“こうか”。つまり、 紅花 で作っている。 古老の話では、紅花の中は、竹のように空洞になっており、 手軽に作れたので使用したという。 ちなみに、上記の写真の光沢は、 漆 ではない。人間の手で、何回も何回もこすったために、 自然に 光沢 がてできたらしい。 実際に、百万遍も念仏を唱えたのかは不明であるが、 この光沢をみれば、かなりの回数に及ぶことは、 容易に想像できる。 これが、紋兵衛の屋敷跡。現在は、
椎茸
を栽培している。
これは、紋兵衛が、狩りに行くときに通った道。 左側は、紋兵衛の屋敷跡。ここをまっすぐに行くと、 紋兵衛の供養碑のある場所にぶつかる。 これは、紋兵衛の屋敷跡の近くを流れる小川。 紋兵衛が、大蛇の左眼を撃った次の日から、 名木沢では、多くの里人が、左眼を 患う という凶事が続いた。 大蛇の 祟り を恐れた里人は、この小川に 不動明王 を 祀った 。 そして、この小川の水で、患った左眼を洗った。 すると、不思議なことに、たちまち治ったという。 これが、不動明王。
これが、 御崎神社 。大蛇関係の、お堂らしきものは見られなかった。 伝承のみで、最初から存在しなかった可能性がある。 または、最初は存在したが、現存していないのかもしれない。 平成17年11月22日(火)掲載
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