赤沼の河童

   昔、この里に、“ 赤沼 ”という沼があった。この沼には、全身が青色で、頭には皿があり、 や背に 甲羅 が生えている、身長が 九尺 もある大きな 河童棲んで いて、いつも 餌食物色 していた。水や草を求めてきた牛馬や、 茣蓙 の材料となる草を 刈り 取りに来た者は、すべて、この河童に沼に引きずり込まれて、食べられてしまったという。

参考『 鳴子町史 上巻 』

現地で採集した情報



“ 赤沼の河童 ” 写真館

この伝承の赤沼は、現存していない。昭和二十三年の 護岸 工事で消滅してしまった。鳴子町史 上巻には、「 赤沼は川渡中学校西隣地で上川原農道下にあったが、今は総合開発の鍬入れ跡も見事に近代営農法による美田と化し… 」とある。
これが、川渡中学校。現在は、大崎市立鳴子中学校になっている。
上の写真が、中学校の西隣の美田。ここに、赤沼があった。と思ったのだが、ある 古老 が、赤沼跡を撮影している私に、「 おい!兄ちゃん!何してるんだ 」と声をかけてくれた。 私が事情を説明すると、その古老は、「 それなら、あの屋敷の人に話を聞けばいい。あの屋敷の 屋号 は、“ 赤沼 ”だ 」と教えてくれた。
この坂を上ると、“ 赤沼 ”という屋号の屋敷がある。その屋敷の古老に話を聞いたところ、赤沼は、上の写真の赤丸のあたりにあったと教えてくれた。
この森の中に赤沼があった。

上の写真の赤丸のところから入る。

上の写真の矢印は川。古老の話によると、赤丸のあたりに赤沼があったという。この沼の水は鉄分を多く含んでいたので、水の色が赤く見えた。そのため、赤沼と呼ばれていた。
古老の話によると、赤沼は、上の図のような感じだったという。この古老は、小学生のとき、この沼で 頻繁 に遊んだ。沼の中に入ると、 までは泥。腰までは水。 の川の 洪水 で沼の水が 溢れる と胸まで水がきたという。
昭和二十三年の護岸工事で、 緩やか斜面 になった。

現在でも、栗の木や柿の木の 切り株 が残っている。この古老が話す赤沼の位置と、鳴子町史 上巻に記述されている赤沼の位置には 相違 がある。しかし、この古老がする赤沼の話は 詳細 であり、信用するに値する。恐らく、鳴子町史 上巻の記述の誤りであろう。
平成19年9月19日(水)掲載