伊達宗敏と所平

   昔、岩出山城の初代城主である 伊達宗泰 には、 正妻 に子供がなかったため、 岩出山 伊達家では、 世継ぎ 問題が深刻であった。宗泰には 側室 がいて、その側室との間には、千代松という子供がいたのだが、その千代松を次の城主に 擁立 しようとする千代松派と、 宮床 伊達家から 養子迎えて 次の城主に擁立しようとする家老派が激しく対立した。

   ある日、家老派は、二歳の千代松を川に突き落として、転落死したように見せかけるという 暗殺 計画を、 密か に実行しようとした。しかし、城の中には、「 何も知らない子供を、 醜い 世継ぎ問題の 道連れ にしてはならない 」と思う、心ある者もいた。そこで、当時、城の 庭師 であった“ 所平 ”という者に事情を話し、所平の屋敷で千代松を養育することになった。

   所平は、千代松を自分の子供たちと平等に養育。千代松には 粗末 な服を着させて、夜遅くまで里の 悪童 たちと遊ばせた。そのため、肌の色は黒くなり、髪はボサボサ、目だけがギョロッと輝く 腕白 な子供に成長した。

   その後、千代松は、六歳から他の場所で養育され、十四歳からは、武士としての修行や城主としての教育を受けた。そして、二代藩主である 伊達忠宗 の名から“ 宗 ”の一字を 拝領 して 伊達宗敏改名 し、岩出山伊達家の二代城主となった。宗敏は、岩出山城の本丸に所平の屋敷を建て、「 、元気か? 」、「 爺、長生きせいよ! 」と言って、毎日、年老いた所平の心を 慰めた という。

参考『 鳴子町史 上巻 』

現地で採集した情報



“ 伊達宗敏と所平 ” 写真館

鳴子町史 上巻には、「 宗敏より拝領の家禄お墨付文書が所平の後裔遠藤勇氏のもとに保存されている 」とあるが、この件に関しては、未確認である。
鳴子町史 上巻には、「 所平の墓は小平屋敷東方およそ二00メートルの小身川原旧墓地内にある 」とある。 上の写真の右の赤丸が、小平屋敷跡。左の赤丸が、 小身川原 旧墓地。写真のとおり、すでに道も何もないので、今回、写真の撮影は 断念 した。
昔、千代松が 茄子 畑で遊んでいたとき、 南瓜 に足をとられて 転倒 し、顔や手足に 怪我 をしてしまった。そのとき、城の勤務から帰った所平に、「 どうして、こんな物を植えておくんだ。爺! 今後、茄子と南瓜は植えてはならぬぞ 」と命じた。そのため、この里では、決して茄子と南瓜は 栽培 せず、食べたいときには、買って食べたという。
平成19年10月21日(日)掲載