琵琶原の由来 1 |
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昔、 最上騒動 のとき、 伊達政宗 は、 絶好 のチャンスとばかりに、最上家を攻めた。そのため、最上家の 家来 たちの多くが 浪人 となり、その家族は 離散 した。 その浪人の中の一人に、“ 大山太郎友勝 ”という者がいたのだが、友勝は、政宗を殺して 恨みを 晴らそうと、仙台藩に 潜入 。この里まで来たとき、ある 農夫 に、「 仙台までは、どのように行けばいいのですか? 」と、道を聞いたところ、その農夫は、「 仙台に行くなら、この道を行けばいい。この道は、仙台に通じる一本道です 」と答えた。 友勝は、「 仙台に通じる一本道なら、必ず、藩内の 視察 で、政宗が通るだろう。そのときこそ、最上家の 仇を討ってやる ! 」と思い、この里に小屋を建てて、畑を 耕し ながら、チャンスを待った。しかし、そのころ、政宗は、仙台・江戸・京都を 頻繁 に 往来 し、藩内を視察する余裕がなかったため、この里に来ることはなかった。 数年後、友勝は、近くに住んでいる農夫の娘と結婚して、男の子が 授かり 、 最上義光 の名前から、“ 義 ”の一字をとって、“ 義太郎 ”と 命名 した。ところが、不幸なことに、義太郎は、生まれながらに 盲目 であった。 友勝は、義太郎が六歳のとき、この里に住んでいた 盲人 に頼んで、義太郎に 琵琶 を習わせた。義太郎は琵琶が好きで、 余暇 さえあれば、 一生懸命 に琵琶を練習した。義太郎の 奏でる 美しい琵琶の 音色 が、いつも、この里に響いていたので、いつしか、 里人 たちは、この里のことを、“ 琵琶原 ”と呼ぶようになったという。 寛永 十三年、政宗は、江戸の桜田邸で、七十年の生涯を閉じた。友勝の願いは 叶わ なかったが、義太郎の琵琶の 評判 は、この里の 領主 である茂庭家の殿様にも聞こえ、その後、姓を斎藤と改めて、親子で茂庭家の家来になった。 参考『 鹿島台町史 』
現地で採集した情報
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