琵琶原の由来 2

   昔、 最上騒動 のとき、 伊達政宗 は、 絶好 のチャンスとばかりに、最上家を攻めた。そのため、最上家の 家来 たちの多くが 浪人 となり、その家族は 離散 した。

   その浪人の中の一人に、“ 大山太郎友勝 ”という者がいたのだが、友勝は、政宗を殺して 恨みを 晴らそうと、仙台藩に 潜入 。この里まで来たとき、ある 農夫 に、「 仙台までは、どのように行けばいいのですか? 」と、道を聞いたところ、その農夫は、「 仙台に行くなら、この道を行けばいい。この道は、仙台に通じる一本道です 」と答えた。

   友勝は、「 仙台に通じる一本道なら、必ず、藩内の 視察 で、政宗が通るだろう。そのときこそ、最上家の 仇を討ってやる ! 」と思い、この里に小屋を建てて、畑を 耕し ながら、チャンスを待った。しかし、そのころ、政宗は、仙台・江戸・京都を 頻繁往来 し、藩内を視察する余裕がなかったため、この里に来ることはなかった。

   寛永 九年、 狩猟 のため、 品井沼 に政宗が来ることになったので、友勝は、「 よし、 千載一遇 のチャンスだ!必ず殺してやる! 」と叫び、政宗が来るのを待った。ところが、政宗が急病になったため、突然、狩猟は中止になってしまう。

   その後、神に頼るしかなくなった友勝は、政宗を殺すための 祈祷 をはじめた。二十一日の満願の日の前夜、必死の祈祷を続けている友勝は、 呪文唱える のも困難なほどに 痩せて いた。

   友勝が、必死に祈祷をしていたところ、二〜三度、戸を 叩く 音がした後、二人の若者が、戸を 破壊 して部屋に入ってきた。そして、その二人のうちの一人が、「 父さん! 父さん! 」と叫んだ。友勝は、 出羽 に妻と三人の子供を残してきたのだが、この若者は、末の男の子で、もう一人は、その家来であった。

   末の男の子は、生まれつき 盲目 だったので、京の都の“ 宗達 ”という 琵琶名人弟子 となり、その後、 師匠 の名の一字をもらって、“ 宗敏 ”と名乗った。そして、琵琶の名人となった宗敏は、出羽の家族のもとに帰り、 錦を飾った のであった。

   元和 八年、この里の小屋に住みはじめてから十数年、 殺気 に満ちた友勝の生活であったが、 立派 に成長した子供の姿が、友勝の“ 政宗に対する恨みの心 ”をとかしていった。

   宗敏の 愛器 “ 残月号 ”で 奏でる 琵琶の 音色 は、友勝の心を 癒し 、この里のすみずみにまで響きわたった。そのため、いつしか、 里人 たちは、この里のことを、“ 琵琶原 ”と呼ぶようになったという。

参考『 鹿島台町史 』

現地で採集した情報



“ 琵琶原の由来 2 ” 写真館

その後、友勝は、この里の 領主 である茂庭家に 仕え 、姓を斉藤と改め、斉藤道場の主として、若い武士たちの 指南番 をつとめた。また、宗敏も茂庭家に仕え、その子孫は永く栄えたという。
鹿島台町史には、「 住居は松山町竹ノ花囲付近の道門であったが、道路改修のため 木間塚 に転居したという。本地台畑の斉藤利政氏はその子孫といわれ、この琵琶原物語にまつわる資料や刀・ など所蔵されている 」とある。
平成22年9月21日(火)掲載