伝承

“ 女の道 ” と “ 孝 ” との間で …
大崎市/三本木坂本/舘山

   昔、この里に、 “ 鈴木八五郎 ” という武士が住んでいた。八五郎には、 “ ” という一人娘しか子供がいなかったので、八五郎は、鈴木家を存続させるため、辰に、 “ 八太夫 ” という 婿 養子 をとらせた。八太夫と辰との夫婦仲は 円満 で、その後、辰は女の子を出産した。

   ところが、不幸なことに、八太夫が ハンセン病感染 してしまった。八五郎は、 「 このままでは、みんなに病気が感染し、鈴木家が 断絶 してしまう ! 」 と 激怒 し、辰に、八太夫と 離婚 しろと迫った。ところが、辰は、 「 私たちは、夫婦なんですよ。子供も 授かり ました。今、ハンセン病に感染したことを理由に離婚したのでは、 “ 女の道 ” に 背き ます 」 と言って、離婚することを 拒否 した。

   そこで、八五郎は、ある夜、 に住んでいる 与右衛門 の屋敷から 米俵 を盗み、その 米粒 を、 故意 に、八太夫の屋敷の玄関にこぼしておいた。翌朝、このことに気づいた与右衛門が、八五郎に相談したとき、 八五郎は、 「 米俵を盗んだのは、八太夫に違いない。玄関にこぼれている米粒が何よりの証拠だ ! 」 と叫んで、すぐに、 に訴えた。

   藩の 取り調べ では、八五郎の主張と八太夫の主張が激しく対立した。そこで、藩は、辰に事情を聴くため、 「 明日の朝、役所まで来るように 」 と命じた。 辰は、親戚の者たちと相談し、明日の朝、親戚の者たちと一緒に役所に行くことにした。

   しかし、このとき、辰は、すでに、この事件が父親の 企み だということを知っていた。辰は、 「 真実を話せば、自分の父親を 刑務所 に送ることになる。だからといって、 を話せば、自分の夫を刑務所に送ることになる。私はどうすれば … 」 と 苦悩 し、ついに、 進退窮まった

   正徳 四年四月十四日、親戚の者たちが辰の屋敷に行き、玄関から何度も辰を呼んだのだが、まったく返事がなかった。 「 どうしたんだろう … 」 と思い、屋敷の中に入って、そっと、 をあけると、辰と二歳の子供が血まみれになって死んでいた。辰は、まだ二十七歳という若さであった。

   辰は、二歳になる子供を、 でしっかりと自分の体に結びつけ、まず、 懐刀 で子供を刺してから、自分も 斬って 自殺。その部屋には、次のような 遺書 が置かれていた。

   此の度私事御上へ被召候は、是非の證人と相成候事と覺悟極め候得ども、親へ一同申上候得ば、義理相立不申、夫へ一同申上候ては、親へ不幸の罪遁れがたく、斯様に相果申候、御二人へ先だち候得ては、御介抱可申上方もなく、行末如何御渡り遊ばし候やらんと、是のみ夜見路のさはりと成る、八太夫どのへは未来にてと何事も書殘し不申候、めてたくかしこ  ( この度、このような個人的な事件で、藩からの 召集 を受け、私が、この事件の 是非 を決定する 証人 になるのだということを 覚悟 いたしました。父親の主張に同意すれば、夫に対する 義理 が失われます。かといって、夫の主張に同意すれば、父親に対する 不孝 の罪から逃れることができません。私が、父親と夫より先に死んでしまった現在では、藩の方に、 「 どうか、父の 面倒 を見てあげてください 」 と申し上げる方法もなく、将来、父が、どのようにして世の中を生きていかれるのであろうかと、そのことだけが気がかりで、私が、 黄泉の国 へ旅立つ 妨げ となっております。八太夫様には、将来、黄泉の国で再び 逢え ますので、特に書き残すことはありません。 めでたくかしく
正徳四年四月十四日

三界の  かせとし聞けど  子を負ふて  三途の川  淺瀬問はんと  ( 三界の首枷 とは、よく聞く言葉ですが、その通りですね。今、私は、自分の子供を 背負って三途の川浅瀬 から、自分の父の 安否 をたずねようとしています )

   その後、この事件の真実が判明し、これを聞いた第五代の仙台藩主である 伊達吉村 は、辰の 孝心貞節 に深く 感銘 し、辰と子供を 天性寺手厚く 葬らせた 。さらに、仙台藩の 儒学 者である 田辺希元 に命じて を建てさせ、 “ 節婦 鈴木氏辰之墓 ” という碑文の文字を一流の書家である 長倉一平 に書かせたという。

参考 『 哀史 節婦辰女の生涯 』
現地で採集した情報


“ “ 女の道 ”と“ 孝 ”との間で… ” 写真館

これが、天性寺の 山門



これが、天性寺の 本堂



これは、天性寺の 境内 にある節婦たつ女の由来記。



これは、ハンセン病の方の写真。 出典 は不明。ハンセン病は、たいへん感染力が弱い病気で、現在では 治癒 が可能である。しかし、その見た目により、多くの 差別偏見 を受けた病気でもあった。


これが、辰の 霊廟



これが、辰の墓。



赤丸は、辰の墓の横にある 卒塔婆



戒名 は、 “ 轉成善 ” となっている。 “ 轉 ” は “ 転 ” と同じ。業転成善は、 “ ぎょうでんせいぜん ” と読み、 「 悪い行為が転じて善となる 」 という意味。つまり、子供と一緒に 自害 したことなどは悪い行為であるが、それらの悪い行為が、辰の孝心と貞節によって、すべてが良い行為に転じたということである。


ちなみに、霊廟の中には、辰と子供の絵が 飾られて いる。窓ガラスの外から撮影したので、 鮮明 な画像ではないが、拡大したものが下の写真である。


赤丸は、辰が自殺に使用した懐刀。ちなみに、辰の子供は女の子ということになっているのだが、本当は、男の子であったとの伝承もある。 なぜ、男の子を女の子としなければいけなかったのかに関しては、 「 武士の世界では、 世継ぎ の男子は大切な存在。辰が、世継ぎの男子を殺せば、 “ 鈴木家を断絶 ” させたことになる。そのため、辰の 名誉 のために、 後世 の里人たちが変えた 」 とのことであった。


これは、 「 哀史 節婦辰女の生涯 」 に 掲載 されている絵。


ちなみに、自害に関してであるが、男性は 切腹 で、女性は 頸動脈 を斬るというのが多かったようである。これは、切腹にくらべて、頸動脈を斬る方が苦痛が少ないためである。上の画像は、江戸時代末期の切腹の 様子 。ウェブサイト 「 Wikipedia 」 より画像を引用させていただきました。


ただし、女性の切腹がなかったわけではない。江戸時代に、 大名 の夫人が切腹したという例があるようである。画像 1 〜 2 は、ウェブサイト 「 女切腹とエロス 」 の画像を引用させていただきました。


もっとも多く女性が切腹したのは、戦国時代である。戦いに負けた方の女性たちは、 レイプ された後、殺されたり売られたりすることも多かった。切腹には、 「 私は死を恐れない 勇猛 な人間だ 」 ということを見せる意味もある。生きて恥をさらすよりも、切腹して、敵に自分の 誇り を示したのであろう。


藩を 騙そうと した鈴木八五郎は、本来ならば死刑なのだが、藩主である伊達吉村が、辰の自害の理由に同情し、 終身刑 とした。一方、鈴木八太夫は、当然のことながら無罪となった。この伝承に関しては、いくつかの 異説 があったのだが、私が、それらの異説を組み合わせて、分かりやすい文章にした。この伝承に興味を持った方は、 「 哀史 節婦辰女の生涯 」 に掲載されている資料編を参考にすると良いと思います。


平成23年9月20日(火)掲載