伝承

源頼朝と名馬
大崎市/三本木新町

   昔、 源頼朝奥州征伐 をしていたころ、 暴風雨 のため、一夜にして 鳴瀬川 が増水し、この里に 甚大水害 があった。このとき、鳴瀬川の水面から頭を出して 華麗 に泳いでいる一頭の馬がいた。その馬の鼻には、 鼻竿 が八本もつけたままになっていたので、 不憫 に思った 里人 たちが、鼻竿をとってやった。ところが、里人たちが助けたにもかかわらず、この馬は、この里の者には誰一人としてなつかなかった。しかし、不思議なことに、この里から離れようともしなかった。まるで誰かを待っているかのようであった。

   里人たちは、 「 おれたちは、あの馬に 嫌われて いるみたいだなぁ 〜 」 と思ったのだが、なんとなく、神様から 授かった 馬のように思えて、大切に 見守って いた。その後、この馬が、この里から遠く離れた 岩出山池月 にいたことがわかった。池月では、この馬が、あまりにも 暴れる ので、 「 何の 役にも立た ない馬だ ! こんな馬は 捨て ちまえ ! 」 と言って、暴風雨で鳴瀬川が増水したのをいいことに、この馬を、増水した鳴瀬川の 濁流 の中に投げ捨てた。

   このことを知った里人たちは、 「 なんと不憫な … 。でも、この馬は、山や川などでも平地と同じように動くことができるし、川を泳ぐ姿も、じつに 巧みで 華麗だ。役に立たないどころか、 名馬 の中の名馬だぞ 」 と し、この馬を、 “ 池月 ” と呼んで、この里の 長者 である千葉家で大切に育てるようになった。

   ちょうどそのころ、源頼朝が平泉に向かう途中、この里の屋敷に 宿泊 したことがあった。このとき、この里に名馬がいるという噂を聞き、 家来 に千葉家を 訪ね させて、池月を 譲渡 するように頼んだのだが、千葉家では、 「 もしかして、買った後、池月を 斬り捨てる つもりなのでは … 」 と思い、譲渡を 拒否 した。

   ところが、頼朝は、名馬ほしさのあまり、千葉家の心を読むこともなく、 「 千 だす ! それだけ 払えば 良いであろう 」 と言って、譲渡を 迫った 。千葉家では、 「 金の問題ではないが、そんなに欲しいのならば、殺すことはないだろう … 」 と思い、千貫文で譲渡することに 同意 した。

   喜んだ頼朝は、すぐに、池月に乗ろうとして、馬の背に手をかけた。すると、池月は、前 折って 頼朝を 歓迎 した。この 利口 さには、さすがの頼朝も驚き恐れ、千葉家では、 「 やはり、池月は、武士が好きだったのか 」 と言って 頷いた 。千葉家が、千貫文で池月を頼朝に譲渡したため、いつしか、里人たちは、千葉家の屋敷がある森を、 “ 千貫森 ” と呼ぶようになったという。

参考 『 三本木町誌 下巻 』
現地で採集した情報


“ 源頼朝と名馬 ” 写真館

赤丸が、千貫森。現在でも、この森の近くに、この伝承の千葉家の 末裔 の方が住んでいる。


現在、千貫森は、公園になっている。



この階段を上っていく。



緩やかな 坂なので、散歩している感覚で歩ける。



さらに、上っていく。



頂上が見えてきた。



ここを上っていく。



ここが、頂上。



これは、頂上からの景色。



池月が源頼朝を乗せて、この里を去るとき、頼朝が用意した 八反 をなびかせ、その を地上につけることなく、華麗な走りで去っていったという。八反の絹を地上につけないで走るとは、どういうことか ? 戦国時代軍馬 の平均 馬身 を約2.7メートルとすると、上の図のようになる。八反は、約80メートルなので、平均馬身の約30倍。よって、池月は、次の図のように走ったことになる。


これが、マッハ池月 … 。



三本木町誌 下巻には、 「 これより桑折 ・ 伊場野を経て、石の宮より松山山道峯筋に松の木林が有る所に、公が池月を止めて、馬草を与えた。そして乗馬の時に用えた絹の反物を松木に掛けたので、この地を 『 衣掛け 』 と後世まで地名に言え伝えている 」 とある。 このことに関して調べたところ、 “ 衣掛け ” という地名はなかった。しかし、三本木町誌 下巻の記述にしたがって、 三本木桑折  〜 三本木上伊場野  〜  松山下伊場野石宮 と南下して行くと、 鹿島台大迫 に、 “ 絹掛 ” という地名があった。おそらく、 “ 衣掛け = 絹掛 ” なのであろう。


源頼朝の生存年代とは違うのだが、この伝承の千葉家は、約500年前から、この里に住んでいるという。昔、千葉家では、四十八の蔵を建てて、 酒造り営んで いた。そして、 高瀬舟 が鳴瀬川を利用していたときには、その客を相手に、 莫大 な利益を得た。ちなみに、 最盛期 には、酒の作り込みのときの 磨ぎ汁 が、約10キロにわたって鳴瀬川を真っ白く染め、 美里町不動堂 あたりまで続いていたという。


三本木町誌 下巻には、 「 その後次第に高瀬舟の来る数も減じ、酒倉の数も段々淋びしく成るに従つて、千貫森の地も他人に売り渡されると共に、古文書等も手離されて、今は千葉家の系図一巻を保存しているのみである 」 とある。この伝承の千葉家の末裔の方に話を聞いたのだが、 「 ん 〜 、ちょっと、わからないねぇ 」 とのことであった。


平成24年1月19日(木)掲載